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石造りの迷宮 第三話


第三話


 振り向いてみると、衝立の向こうに若い女の子の姿が見える。その娘の細い目は切れ長で、快活で勝ち気な雰囲気を漂わせている。それは探るように椅子に座っているメンバーを見渡し、君の所で視線を止めたようだった。そこで君は、自分への用事かと予想を立ててみた。その顔に見覚えがなかったので、しばらく考えた末、きっと六階のスポーツ売り場からの使いで、仕事が忙しくなってきたから戻るように言うつもりだ。そう直観した。
「あいよ」
 テーブルの傍で立っていた福盛が、誰も動き出そうとしないのを見て、体を揺らしながら入り口の方へ向かい、女性と話し始めた。君には話の内容が聞こえなかったが、確かに彼女は、遠慮がちながら君の方を揃えた指先で指し示し、主は、やはり同じ方を顎でしゃくっていた。自分に用があるのだと思って立ち上がりかけた時、彼女は会釈をして、店の前から居なくなってしまった。
 主がやにさがった顔をして戻って来ると、君の隣へと回り込んで椅子に腰かけた。
「礼田君。この後、六階に来てくれってさ」
 やはり六階の仕事だったのか、そう言うと、主は首を振った。
「そうじゃない。俺が、礼田君はこの後六階に戻って働く予定だって伝えたら、そこで待ってるって言うんだ。うちはもういいから、六階に行っておいで。那由多にも言っておくよ」
 主は、伝言の内容を告げた後、にやにやと笑っていた。君は、その表情を変だと思って尋ねた。
「あの……、あの女性は一体?」
 君がその女性を知らないことに、彼は怪訝な顔をしてみせる。
「知り合いじゃないのか? 俺は、てっきり礼田君の恋人か何かだと思って……。隅に置けないなあって感心していたんだよ。何だよ……違うのか。そう言えば、礼田君は痩せているから、もっと食べてがっしりした体つきにならないと、女の子には……」
「僕のことはいいので、いったい誰なんです?」
 女性が何の用事で訪ねて来たのか、わからないのがもどかしくなり、つい強い口調になってしまい、後悔をする。しかし、福盛はそれを意に介しておらず、顎に手をやって考えていた。
「そ、そうだ。地下一階の『かつ宮』って店の娘で、確か……名前は……」
「鹿島さんじゃないか?」
 支配人が無表情で静かに口を挟んだ。
「そ、そうです。礼田君、かつ丼でも注文しているのか?」
 主の言葉に、君はドキリとした。
昨日のかつ丼の件だ。お金が足りなかったのだろうか? しかし、万引きだと誤解しているのなら、もっと強面の店長か責任者が来るはずだ。考えを重ねるうちに、最悪の事態ではないと自分に言い聞かせることができ、君の速くなっていた鼓動が、穏やかなリズムを取り戻してくる。
     
 
 八階から六階へは階段を使って降りることにする。何気なく階段の踏み板に足を落としていたが、すぐに、丁寧に――卵の上に乗せるように――足を置き、背筋を伸ばす。
「移動中も、君はうちの従業員として見られているんだ。買い物に来ているわけではない。背筋を伸ばして、折り目正しくしていなさい」
 鰻屋を出る時に、支配人からそのように忠告されたのを思い出したのだ。普段は絶対に持たない手擦りに手を添えていると、まるで一流の紳士が劇場に姿を現したかのような気分になる。そして、ますます足音を立てないようにそっと歩を進める。
 六階の踊り場の所で、明かりが射し込んでくる場所に人影があった。背は君よりやや低いが、子どもと言う感じではない。さっき、待っていると言伝を残した女性に違いないと思い、一秒でも待たせないよう、さっきまでの注意から離れて急に足早になるだろう。薄暗い階段に比べてフロアの光が届く非常口付近に着くと、彼女の表情がはっきりとしてくる。傍に寄ると、君より頭ひとつ分だけ背が低く、その分、顔を上げて嬉しそうに笑っている。その笑顔に特別な意味はなく、ただ用事で探していた相手にやっと会えた安心感から来るものであることを、君は知っている。彼女は、君が息を整えるのも待たずに、口を開くだろう。
「礼田さん、ですよね? 昨日、かつ宮でお金を置いていった」
 彼女は、上目遣いで君を見る。その目に不安をおぼえて早く話を進めようとする。
「すみません。僕、かつ丼を買おうとしたら、誰も居なくなっていて……。お金置いてったんですけど。受け取ってもらえました? 問題でもありました?」
 彼女は、一度は頷き、それから首を振った。
「かつ丼。割引品だったのよ。かつ丼が四百円で、お茶が百円。五百円でしょう? あなたは九百円置いていったから、はい、お釣り」
 彼女は片手で君の手を取って、もう片方の手で小銭を握らせてくる。心臓の鼓動が急に早く打ち、頬のあたりに熱を帯びてくるのを感じる。それを悟られないように慌てて手を引っ込めて礼を言うが、その声はどんなに平静を装って抑制しても、震えているように感じられてならない。
「ぼ、僕、計算間違えていたんですね。すみません。あのかつ丼、美味しかったです。また買いに行きます」
 彼女はそれを聞いてにっこりとしていたが、何かを思い出したように瞳を大きく開いた。
「そうそう、従業員なら現金は必要ないのよ。名前書いておいてくれれば、給料から天引きされるから」
 君は話を聞くうちに、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「どうして僕がここで働いていると思ったのですか?」
 メモ書きにはかつ丼の代金を置いておく旨と、名前、連絡先の携帯番号しか記載していなかった。住所も書こうかと思ったが、ネットカフェが居住先というのは、記載するのが憚られた。見知らぬ人に、アパートも借りていないと気づかれるのは嫌な気がしたのだ。もし、そう書いていれば、紙を見た人は、周囲にその話を吹聴して回るかもしれない。そうなったら、恥ずかしくなって二度とこの百貨店で買い物ができなくなるだろう。そんな考えが頭をよぎったのだ。君は続けた。
「スマホ、まだ取りに行ってないんです。家に忘れちゃって……」
 支配人にはネットカフェ難民であることを難なく言えたが、自分より年下であろう娘に、そう告げることはできず、「家」という言葉を選んだ。その時、声がうわずったような気がした。
「ええ、スマホは繋がらなかったの。でも、閉店でレジを締めてから買いに来る人なんて、内輪の人間しかいないもの。今朝から、各フロアに問い合わせたわ。そしたら、八階のレストランにいるって言うから、訪ねて行ったの。迷惑だった?」
 彼女の、君を窺うような目に、再び顔が熱くなるのを感じた。
「本当は、ここで働くことになったのは今日からなんだけど……。昨日の時点では、まだ決まっていなかったんだ」
 寄る辺のない身の上であることを、誰かに聞いて欲しくなった。彼女の瞳を見つめているうちに、心が流されてしまいそうになったのだ。意外なことに、彼女は一瞬、不思議そうな顔をしたかと思うと、すぐに嬉しそうな表情に変わった。なぜ嬉しいのかわからなかったが、それを問う勇気はなかった。
「ええ? 従業員じゃなかったのに、閉店後にお店に来たってこと?」
「仕方なかったんだ。人混みがひどくて、お店まで辿り着けなくて……」
 言い訳がましいと思いながら話をしていることを意識し出すと、通りがかかりの二人組のお客まで、こちらを気にしているように思えてくる。君は、良からぬ話をしていると思われないよう、背筋を伸ばした。店員も、二人組の気配に気づいて、急に改まった表情になった。
「今日も用意しておきましょうか? 気に入ったのなら」
 君は、「え」と心の中で呟き、首を前に傾ける。彼女は「かつ丼ですよ。でも、二日続けて同じのを食べたくないとかでなければ。割引のシール、貼っておきますから」
 言葉は、周囲を意識したのか、急によそよそしい響きだった。しかし、目には親しみの印が浮かんでいた。
 君は口をあんぐりと開け、彼女の善意に満ちた目を見つめる。そして途方もなく長いと思える時間――振り返ると実際はほんの二三秒だったろうが――口を開けたままでいて、そのことに気づいた君は、恥ずかしさに襲われて慌てて唇を閉じて頷くだろう。
 
 
 スポーツ売り場では最早することが無くなっていた。引っ越し作業は完了しており、催事場の準備も人が足りているという。君を起こしてくれた片桐という女性からは、勉強のために四階の子供服売り場を手伝うように言われる。
 勉強とはどういう意味だろうと訝しみながらも、今度も階段で下に降りて行くと、踊り場でいきなり三四歳くらいの走って来る男の子とぶつかりそうになった。子どもに怪我をさせていないか、それだけが不安だったが、子どもは目をきらきらと輝かせて、一瞬躊躇った後、君の尻を叩いて脇を通り抜け、階段を降りて行こうとする。
「やめなさい! 行かないで」
 彼の背後から金切り声がしたので、君は咄嗟の判断で、子どもの胴回りに手を伸ばして、通せんぼをするだろう。子どもは甘えるように君の腕に絡みつきながら身を預けてくる。腕に重みを感じて、それをどうするべきか迷った。突き放すわけにもいかないし、かといって父親でもないのに一緒に遊ぶのは……。
 迷っているうちに金切り声の女性が子どもに追いつき、その体を君の腕から急いで引き剝がす。そして、背が大人になり切れない子どものように低いが、腹から足にかけてはがっしりと筋肉と脂肪で覆われた女性は、金色と黒が入り混じった頭を二度下げて、君にぶつかりそうになったことを謝る。そして、謝罪が済んだと判断するや、子どもの方を鬼の形相で睨みつけ、
「いい加減にして! 洋ちゃん勝手にあちこち行ってどうするの? ママ、どこかへいなくなっちゃうよ」と叱りつける。
 その口調の激しさに、君はたじろぎ、止めるべきか迷う。しかし、他人の教育方針に口を出すわけにはいかないと思い直す。それに、今の自分は子ども服売り場の店員だ。お客になりそうな人相手にトラブルを起こしてはいけない。子どもの顔を見ると、男の子は
「ママ、怒っちゃってごめんね」
 と、母親が普段使うであろう言葉を発し、けろりとした顔をしている。母親は、君が子供に注目していることを急に恥ずかしく思ったのか、そそくさと小さな子の手を引いてフロアに戻って行く。
     
 
 君も、母子を見送ってから、フロアに出て右に曲がり、おもちゃ売り場を横目に通り過ぎ、子ども服売り場を探す。しかし、子どものピアノ発表会に着るような、レースのフリルのついた洋服ばかり扱う店、青、赤、黄色とカラフルに彩られたデザインで統一された店と、子ども服売り場が何軒もあることに戸惑う。てっきり一軒しかないと思っていたのだ。もしかしたら、服を靴と聞き違えたのかもしれない。立ち止まったおもちゃの前では、子どもたちが熱心に展示用の車のおもちゃを動かしている。その先の靴売り場の前では、一人の男の子が裸足になって、体重計のような台に乗り、足の大きさを測定してもらっている。こんな光景に心を和ませながら、君は目的地に遅れて着くことに罪悪感が薄れてくるのを感じている。
 しかし、そんな遊園地のような空間で、怪獣や電車のプリントシャツがずらりと並ぶ売り場に差し掛かった時、
「礼田君でしょう? のんびり散歩していないで早く来なさい」
 という強い口調の女性の声が、君を呼び止める。
「す、すみません」
 クレーン車のリュックの横にいたのは、短く刈った髪で浅黒い肌の女性だった。一目で趣味はアウトドアに違いないと見当をつけた。彼女は、厳しい目を向けていたが、すぐに穏やかになり
「まあ、いいわ。お子様に優しく接していたようですし」
 と、君の元へ散歩歩み寄ってにっこりと微笑んだ。その浅黒い肌は、化粧でうっすらと覆われていたが、その粉っぽい膜の下から、無数の染みやそばかすが見えていた。開いた口からは、肌の色とは対照的にピカピカと光るように白い歯が目立っていた。胸の名札には店の名前と『店長 目黒』が書いてあった。
「見てたのですか?」
 彼女はそれを聞くと、君の背後を指差した。そちらの方には、降りてきた階段が見えていた。そこでやっと、遠回りをして来たことに気づく。
「声をかけようかと思ったのだけれども、あのお客様がお叱りの最中だったから、様子を見ていたの」
 だったら、母親を宥めたらよかったのでは、と思ったが、何も言わずにいた。彼女は名札の通りに自己紹介をすると、君に指示を出してきた。
「お客様がご覧になった服を畳んで並べて。それも、小さいサイズの順になるようにお願いします。それと、マネキンの服を交換してもらえますか? 会計時に、レジ打ちは良いから、商品をバッグに仕舞うのもやってもらいましょうか。それと、お子様のお相手ね。あなた、子どもは好きかしら?」
 ここ何年も考えたこともない質問に当惑する。子どもは好きか? 心の中で呟いてみるが、何も答えは出て来ない。そのことを率直に言ってみることにした。
「わかりません。結婚もしていないので」
 店長は、不思議そうに君を見つめる。
「そんなに深刻な顔をされても……、ごめんなさい。何かお子さんに関してあったの? プライバシーに入り込むつもりはなかったのだけど」
 彼女は、きっと君が子どもを亡くしたなどのトラウマを抱えているのだと勘違いしているのだろう。そう察しをつけた。そこで、弁解を始めるが、変に緊張して声がうわずってしまう。
「いえ、何もないです。僕、独身で……、自分が生きていくのに精一杯で……。だから、子どもはおろか、結婚のことさえも考えていないんです」
 君のたどたどしいが素直な言い方に、彼女は同情したような目を向けてきた。
「そう……。でもあなたいい歳みたいだし、将来のことを考えた方がいいのかもね。子どもはいいわよ。うちには一人女の子がいるんだけれど、この前雨が降ったでしょう? その子ったら、雨を避けようとして一生懸命跳ねながら歩いているのよ。傘もささないで。もう、可愛くて可愛くて」
 目じりに皺を寄せて笑う彼女を見て、若くはなさそうだ、高齢で出産したのかもと推測してみる。しかし、彼女の年齢を確認する勇気も興味もなかった。さっきの厳しい表情にいつ戻らないとも限らないから。
「で、彼女というか、恋人はいないの?」
 目黒は、もう親しくなった気でいるのか、君の腕を肘で突いてくる。その距離感に戸惑いながら「いませんけど。そんな余裕ないですから」と答え、その質問から逃れようと、手前にある袖がはみ出ている服を手にして、畳み始めるだろう。
 
 
 バタバタと子どもの足音が近づいて来た。さっき母親に怒られていた子どもだ。男の子は、再び君の元に走り寄り、尻を叩いて、靴を履いたまま陳列棚によじ登ろうとする。
「こ、こら」と君は、いつの間には居なくなった店長に代わって、並べた商品を子どもの足元からどけると、彼を抱きかかえて降ろしにかかる。子どもは甘えたようにぐったりと力を抜き、長い首を君の首に絡めるようにもたせてくる。それは、父親に甘えているようで、君は満更でもない気分になるだろう。「エヘヘ」と笑顔を子どもに向けてみる。子どもも、君に向かって「パパに似てる」という言葉を返してくる。
 
「もう、ふざけないで!」
 叫ぶような声に、驚いて子どもを放しそうになる。声の主は、金髪がまだらのようになっているさっきの母親だった。君はゆっくりと子どもを床に降ろすと、その子は立ち上がろうともせず、不機嫌そのものといった顔になって、床のつるつるした面に、指で何かを描く真似をしている。
「洋ちゃん! あれだけ勝手に行っちゃ駄目って、ママ言ったよね? 言ったよね? なんで聞かないの? お店の台には登っちゃいけないって、それも言ったよね。おうちにある踏み台とは違うって。ああ……もう、洋ちゃんといるとママ、恥ずかしい。育てにくい」
 母親はそこまで言うと、君の存在に初めて気づいたかのように頭を下げた。
「すみません、商品に傷がついたり汚れたりとかは?」
 君は手を振って、できる限りの笑顔を見せる。
「お子様は、あのシャツが見たかったのではないでしょうか」
 目黒店長が、いつの間にか出て来て、子どもが台の上で手を伸ばしていた服をハンガーから外すと、母親に差し出した。彼女はそれに訝しげな眼を向ける。
「あの……もしかして破ったなんてことは……」
「していませんよ」
 君は慌てて言う。しゃがみ込んでいた子どもは、きらきらと目を輝かせて、服を掴もうとする。母親は、これがきっかけで購入する羽目にならないかと警戒したようで、それを高く掲げて子どもの手が届かないようにしている。子どもは「家にあるのと同じ」と言って、飛び跳ねるようにして服を取ろうとしている。店長は
「まあ、おうちに同じのがあるの? 良かったわねえ」
 と、男の子に声をかけて笑う。そして母親に
「お子様のお手に取って頂いても構いませんよ」
 と宥めるように言った。子どもは服を手にすると、突然それを放り投げる。母親は目の色を変えて服を拾う。
「洋ちゃん! 今、自分が何をしたかわかっているの? 本当、ママ、恥ずかしい!」
 怒鳴り声が、フロア中に響き、通りがかりの客の視線がそこにいる母子に収束しているようだった。
 君は、服を母親から預かり、店長の目を見てから
「まあまあ。子どもは物を投げたがるものですから」
 と、咄嗟に思いついたことを口にする。店長も穏やかに母親に語りかける。
「恥ずかしい事なんてないですよ。お子様が元気で何よりじゃないですか。ちょっとくらい悪戯をするくらいが丁度良いのですよ。まあ、本当にきれいなお顔で、羨ましいわ。うちの子も今年くらいには……」
「今年くらいには」の言葉に、君は引っ掛かりを感じる。一緒に暮らしていないのだろうか? いや……。今さっき店長が言ったことを思い返し、深い意味はないのだろうと判断する。
 母親はまだ怒りが収まらないようだが、君たち二人の部外者を前に遠慮しているようだった。それを見て取ったらしい店長はうやうやしく頭を下げる。
「差し出がましいことを申し上げてすみません。お子様がお店の中でお好きなように過ごしていただいて結構ですよ、とお伝えしたかっただけで」
「い、いえ、こちらこそ……。つい怒り過ぎてしまったようで……」
 その時、君は子どもの相手をしてやろうと、しゃがんで子どもの目の高さまで体を屈めて笑ってみせた。怒られて不機嫌そのものだった表情は和らぎ、君の背中に回り込んで、よじ登ろうとした。
「こ、こら、やめなさい」
 母親は顔を赤くして止めようとした。君は彼女を手で制した。
「おや、おんぶかな? いいぞ」
 背中に乗った子どものお尻に手を伸ばして支えると、ゆっくりと立ち上がった。思ったより背中に重みが伝わって少しよろめいたが、膝を伸ばし切ると姿勢が安定し、重さもそれほど感じなくなっていた。
「あ、あぶない!」
 母親の怒声交じりの金切り声が再びフロア中に響き渡る。こどもは、君の背中にしっかりと捕まっていなかったのだ。君が振り向くと、手でお尻を支えられているのに甘えて、上半身をイナバウアーのように後方に反らせていた。君は慌てて体を前傾にして、子どもが絶対に落ちない体勢に持っていこうとするが、子どもは益々面白がって更に大きく背中を反らしている。
「もう、もういいから、早く下ろして下さい」
 母親の叫ぶような願いに気圧されて、体を屈め、彼女が子どもを受け止められるようにしてやった。
「すみません、喜んでもらえると思ったのですが……」
 君の意図通り、子どもはすっかり笑顔になり、キャッキャと嬌声をあげ、君にもう一度よじ登ろうとした。母親は、遊んでもらえたことと落ちそうになったことで、半ば喜び、半ば不安がっているような表情をしていた。そして、君に「すみませんでした。この子は危なっかしくて」と謝ると同時に、まだ店員にしがみついている幼児を引き離すようにして、売り場から去って行った。
 店長は、服を元の展示場所に戻しながら、君に言った。
「あなた、子ども好きなんじゃない? あんな事を言っていたけど、楽しそうだったわよ」
 
 目黒店長に褒められて戸惑いを隠せないが、確かに子どもに甘えられると浮き立つような気持になったと、少し前の感情記憶を辿ってそう思った。少しやにさがった顔になっていないだろうか? 子どもを持つことを考えたこともないというのはポーズに過ぎないと思われていないだろうか? ちょっとした自意識が、目黒店長から目を逸らす要因になっている。
 君が返事をするのを彼女が待っているような気がするが、何と答えていいものかわからない。自分は底辺に生きる人間ですから、そう口にするのも格好つけすぎているのではないかと躊躇っていた時、さっきとは別の親子連れがハンガーラックに掛かった服を手に取り、意識がそちらに向く。
 
 
 忙しいと言う程ではないが、途切れることなく親子が何組もやって来たので、君は店長と結婚や子どもについて深く話すことはなかった。店長もそこまで君の話を深く掘ろうとは思わなかったのだろう。そのことに安堵の息を漏らす。
 閉店間際になると、店長は伝票の束をレジの上に置いて、レジをカタカタと打ち始める。レジを締める作業を少し早く始めたに違いない。君は、その時、夕食のかつ丼を売ってもらう話を思い出す。
「しまった」
 思わず強い声が漏れた。店長が老眼鏡を鼻へとずらし、君を見つめた。
「どうかした? 今日はもうすぐ閉店だから上がっていいわよ。お疲れ様」
 店長の言葉を合図にしたように、昨日と同じ調子で、客を帰すための音楽がどこかにあるスピーカーから流れ始めた。
「もう閉店なんですよね?」
 彼女は腕時計にちらと眼をやる。
「そうよ、午後からはあっという間ね。とくにデパートではね」
 君は何のことを言っているのかわからないまま、頭を下げると、ちらほらと見えるお客にだらしなく思われぬよう、背筋をピンと伸ばして階段へと向かった。
 
 
 薄暗い階段は下に向かうにつれて、闇が口を開けて待ち構えているようで、足を踏み入れるには勇気が必要だった。しかし、かつ丼だけではなく、給与の日払いのこと、履歴書を書かせてもらわねばならないことを考えると、迷っている暇はなかった。急ぎ足で段をリズミカルに駆け降り、踊り場で直角に二度ターンしてはまた規則正しいリズムを刻んだ。
 一定のリズムの早足で降りて行くうちに気分が高揚し、少し乱れた息も、胸の鼓動も、楽しい合奏のようだった。今何階にいるのかを考える必要さえなかった。無限に続く階段と踊り場の繰り返しを味わえればそれでよかったのだ。
    
 
 もう下に続く階段も踊り場もない所まで降りた。そこが、一番下にある地下一階に違いないと確信する。光の見える大きなゲートを抜けると、すぐ目の前にはガラスのショーケースに入った高級食パンが薬包紙のような薄い紙に包まれているのが見える。その前には客が行列を作っていて、昨日通れなかった通路を思い出させる。昼間、かつ丼を取っておいてくれると言っていた……誰だっけ……そうだ、鹿島さん。君は、彼女の感じの良い笑顔を思い浮かべながら、人混みをより分けようとする。人を押しのけて左に曲がると、左手にやはりパン屋があり、背の高いガラスのケースに入った大きなフレンチトーストが黄金のように輝いている。ふっくらとして柔らかそうな見た目が君の空腹にアピールをしている。
 この方向でいいのだろうか? 昨日とは違う所から降りたせいで、その先にあるクッキー専門店にも、かつ丼屋に通じるヒントを見出すことができず、君は曲のリズムに逆らうように人込みに体をよじらせ「すみません、通ります」と音楽に負けないような大声を張り上げ進んで行く。ふと、クッキー店の奥にあるフルーツの棚に目が留まる。その遥か向こうに「かつ丼」の文字が見えたのだ。あ、あれだ。確かに「かつ宮」だった。かつ丼ののぼりの所に店名もちらと見えた。
 すぐにそこへ向かおうとした。すると、急に曲のテンポが速くなったような気がした。同時に人いきれも激しさを増し、フルーツ屋の前を通り抜けられなくなった。ちらと横目で見ると、高級マスクメロンを受け取ろうと長蛇の列が、君の前で何列にも折り重なっている。どこからか「そこは一番後ろじゃないわよ」と非難するような声がする。曲のテンポに合わせて、列はどんどん進んで行くが、行列は人がぎっしりで、そこから通り抜けられそうな隙間が見当たらない。しかも人は益々増えているように思える。それもそのはずで、メロン目当てに並ぶ人と、メロンの霧の箱が入った手提げ袋を手にして行列から逃れようとする人たちの間で、一種の混乱が生じていたのだ。
 君はもう待てない。今日こそは、閉店までに百貨店を出て……。その時、荷物の事を思い出す。支配人は確か、ネットカフェの荷物を取って清算しておいてくれるということを言い出さなかっただろうか? そうなると、着替えやら洗面道具はどこへ取りに……? 頭の中がまとまらないまま、前へ進むことにした。すると、目の前にあった行列の人々は、波が引くように急に減り始める……。
 それは、夢で見るような恐るべき速度だった。先ほどまで列に並んでいた人々は、メロンが売り切れたのを知ったのか――きっと特売か限定品のメロンだったのだろう――並び続けることをあっさりと放棄し、銘々店舗の間にある通路から、どうやってあれほどの人いきれが消えるのだろうと不思議だったが、あっさりと影が薄くなるように通り抜けてどこかへ引いていった。
 ま、まさか。君は目の前の通路にほとんど人がいなくなったことを喜ぶ間もなく、襲いかかるようにやって来た焦燥に支配された。慌てて駆け出すと同時に閉店の曲は鳴り止み、やはり同じように静寂に君の靴音だけが床から響いている。しまった、まだあの娘はいるだろうか? フロアマネージャーや支配人は? やらなければならない手続きを思い浮かべつつ、懸命に走るとすぐ近くに「かつ宮」ののぼりと空のショーケース、そしてその前には特売用のワゴンがあった。ワゴンの中は空で、全品半額の文字が虚しく自己主張をしていた。そこには昨日と同様店員はいなかった。きっと待っていてくれたに違いない、悪いことをしたな。君は失望と後悔を抱えて何も入っていないショーケースを眺め、レジに目を移す。すると、レジの横にかつ丼の容器がひとつ残っていた。それを手に取ってみると、温かさが手に伝わってきた。まるで作り立てのようだった。透明な蓋からかつ丼を覗くと湯気の水滴が蓋に張り付いていて、揺らすと卵の黄色と白の暖かな境界線の上にぽとりと落ちる。蓋には製品紹介と共に小さなメモ紙がついていて『礼田さん用。従業員割引です。鹿島』と書かれていた。きっと保温しておいてくれたに違いない。胸の奥からじんわりと温かいものが込み上げてきた。丼容器の隣に折りたたんであったレジ袋を広げ、そこにかつ丼を入れて手に提げた。
     
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