上を向いて歩こう――映画『オーメン(2006年版)』が教えてくれたこと
はじめに
こんにちは、吉村うにうにです。普段は、猫が登場するファンタジーやヒューマンドラマなどのエンタメ長編小説を執筆しています。今回は、映画『オーメン(2006年リメイク版)』をご紹介したいと思います。表紙は、映画のタイトル画像を使用しています。
オーメンとは
6月6日午前6時に生まれたダミアンは、実は悪魔の子で、アメリカ駐英大使の子どもとして育ち、生物学上の母親やお手伝い、ダミアン出生の秘密を知る神父、ダミアンを怪しむジャーナリストなど、自分の野望を実現に障害となる者、ダミアンの秘密を知って邪魔になった者など、関わった人間を次々と特殊能力で殺害していくホラー映画です。
何が怖いって
この映画、殺害方法が毒殺、野犬を使う、自殺に追い込むなど多岐にわたるのですが、とりわけ、空からの落下物がもっとも心理的に恐怖感を呼び起こしました。その中でも、避雷針が突然折れて神父に刺さるシーン、鉄製の看板が回転してジャーナリストの首を刎ね飛ばすシーンは、衝撃的でした。そのせいで私は、数日間上空を見て、架空の飛来物に怯える日々を過ごしておりました。
普段注意を向けていないのはノーリスクだからではない
さて、表題ですが、ここでの上を向いて歩く意味は、坂本九さんのおっしゃるような涙がこぼれないようにではありません。一見安全に見える場所が実は安全とは限らない、とりわけ、殆ど注意を払わない上空に気をかけましょうという意味です。
読者の皆さんは、オーメンの世界が超常現象を描いたフィクションであり、現実にはあり得ないと思われるかもしれません。しかし、件数は少ないですが、トンネル走行中に五万トンの岩が崩れてトンネルを塞ぐ、人が屋上から落下して歩行者と激突する、ジェットコースターがレールから外れて落下する、そういった事故は起きています。読者の皆さんも、地上を歩いていて、もしくは車を運転していて鳥の糞の被害に遭ったことくらいはあるのではないでようか? でもそれが、もし大きな隕石や、屋根の修理中に作業員の方が落としたハンマーだったらと考えたことはありませんか?
そんな事を気にしていたら生きていけない
街を歩いていて事故に遭う。しかも車や路上の段差ではなく空からの落下物によって。それは、極めて低い確率でしか起きない事象です。社会学者のアンソニーギデンズによれば、現代のリスク社会の中では、人間は長期間の訓練と親から与えられる安心感によって保護被膜をまとうことで、社会を信頼し安心して暮らせるようになるとのことです。つまり、住宅街の道路で、時折暴走する車に注意を払う以外、特段警戒することなくスマホを操作しながら歩いているのは、幼少時から、母親や校長先生から「車に気をつけなさい」と注意され続けながら訓練することで、よくある脅威には自動的に反応でき、また、生活する上での慣れと自信から、身体は周囲の環境から守られているような感覚を獲得した結果です。そして、その保護被膜は、状況によって厚くなったり、剥がされて薄くなったりするのです。
保護被膜の薄い例が、強迫神経症と呼ばれる状態です。この疾患の方は、ありえないことに対する不安感で、一見無意味な行動を何度も繰り返してしまいます。例えば、外出前に何度も執拗にガスの元栓を閉めたかを確認したり、自分の運転する車が少し揺れただけで、誰かを轢いてしまったかもと思い、通った道を戻って見に行ったりします。
保護被膜に頼りすぎるとレアなケースに対応できない
しかし、保護被膜が厚ければいいというのではなく、保護被膜に自分の安全を任せきりで生きていくことには限界があります。例えば、交差点で一時停止を一切行わず、車の間をすり抜けるように自転車で走る人、歩きスマホをしながら駅のホームの端を歩く人は、この世が安全に満ちていて、自分に脅威が迫っていても気づかない人でしょう。こういった人が事故に遭うことは稀ですが、それでもこういった人たちの行動は自分の生命を運に任せてしまっている状態で、自ら危険度を増していると言えます。
現代の文明が人は自分を護る行動をしなくなる。
強迫神経症にかかっている本人も、そうでない人も含めて、多くの人が誤解していることがあります。それは「強迫神経症は本来あるべき人間の姿ではない状態」だという誤りです。勿論、疾患に苦しむ方は、適切な治療で社会に上手く適応できるに越したことはありません。しかし、本来、人間の大脳基底核の部分からは、常に警戒信号が出ていて、不安感がその人をせっつかせて、何度も確認行為などの強迫的な行動を取らせるものなのです。これは、古代の狩猟採取の時代の産物です。周囲に物音がする度に、周囲に虎やライオンなどの危険がないか何度も確認することは、古代で人間が生き残るためには必須の行為です。「多分、危険な肉食獣ではないだろう」と安易に判断して寝てしまうことは許されないのです。物音がして、それが危険な捕食者である確率が、万に一つという低い確率だったとしても、たった一度の失敗で自己の生命が終わってしまいます。つまり、強迫神経症的な行為は一度の失敗も許されないからこその、脳による防衛システムだと言えるでしょう。
ところが、現代では法律、安全装置、信号、安全への啓蒙などで、リスクが下がっていると認識されています。実際には、昔に比べ、新たな脅威――例えば航空機の出現、今後生じ得る例だと自動運転車や宅配ドローンなど――が生じ続けているために、必ずしも、リスクが下がり続けるとは限らないのですが。問題は、リスクが管理されているようにみえる状態をゼロリスクと過信してしまう事です。そうなると、街を走る自動車が自分に向かって暴走することなど微塵も疑わなくなります。つまり、強迫神経症的な考えや行動をしていない人というのは、文明の力で保護被膜をまとい、警戒心を無理矢理抑えられている状態だと言えるでしょう。
労働災害は、起こりえると思わなければ防げない
私は、仕事上、様々な職場に赴き、そこに潜む危険を察知して改善を促す仕事をしています。これは、過去の事故事例のデータと想像力が必須の業務ですが、オーメンを観た経験も少なからず危険を予知する業務に寄与しています。しかし、残念ながら私の提言に対して会社が対策を講じてくれることは少ないです。やはり会社は、厳しい社会情勢の中で、安全より生産や品質管理を優先してしまうスタンスを取っている様です。
例えば、ある会社の倉庫では非常口前に大量の重量物を置いて塞いでいます。もし火災が起きたら脱出不能になると何度注意しても、職場の担当者は「他に置く場所がない」と笑っています。その人には、そこで火災が起きるとは想像できないのでしょう。しかし、倉庫での火災は近年でも起こっています。さらに、オフィスビルなどの火の気がない所でも放火事件による死亡例は生じています。何年かに一度しか起きない事故でも、生じたらどうなるかを想像しないと事故対策は立てられませんし、労災を防ぐことは難しいです。
落下物に対しても同様の事が言えます。「人間の身長より高い場所に商品を置いてはいけない」と社内ルールで決められていても、効率よく商品を運搬したいがために守らない方がいます。その方にとっては、積んだ商品がちょっとした揺れで誰かの頭上に落下して、怪我をさせる可能性に考えを及ぼすことができないのでしょう。
オーメンは世の中の危険を凝縮して見せている
映画の恐怖は、ダミアンの特殊能力にあるとは言えないようです。特に怖かったのは、悪魔の子の仲間が毒を注入することでも野犬が牙を剥いて襲いかかる事でもなく、日常でありえそうな事故の起こし方でした。それは、私たちを覆う保護被膜を一時的に剥がし、この世が絶対安全であるという認識を否定しています。映画の後、数日間は視線が空に自然と向かい警戒していました。今でも、大きな看板の下を歩く時には、ネジがしっかりと閉められているか、風でそれがグラついていないか見る癖がついています。電気工事用の高所作業車の近くを通る時には、上方から目が離さないようにしつつ足早に通り過ぎます。また、警戒は空だけではなく、道路を歩行している時に自動車が近づいてきた時もドライバーの目を見て彼らの判断力の正常性を見極めようとします。大げさなと、読者の皆さんには思われるでしょうが、世の中を安全に動かしているシステムは、歯車が一つ狂えば崩壊するものです。映画では、「悪意」が人々の安全を脅かしていましたが、その根底には、人々の無知、想像力の欠如、安全神話への依存で自分自身が脆弱な状態で生きている事を忘れ、警戒を怠っていることが崩壊を招く要因があるのでしょう。
この映画を観ることで、事故発生のリスクをコントロールするにあたって今までにはない視点「事故を起こしたがる人にとっては、どこに隙があるのか」を獲得できたと思います。これは、日常生活にも仕事にも活きているように思います。それほど怖かったです。