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石造りの迷宮 第五話

     

     第五話


 今日どこで仕事をするか聞かされていなかった君は、鞄に入っていた洗濯済みのシャツとズボンに替えると、職場の誰かが迎えに来るのを待つことにした。昨日と同じように起こしに来るのを待てばよい、そう思ったのだ。
「じゃあ、お先に。地下食料品店に行ってくるね。また後でね」
 鹿島は、意味ありげに笑うと、エプロンに帽子、貴重品入れの小さなバッグという出で立ちで、君の頬に唇を軽く当てる。そして、二三歩はにかみながら後ずさりして、くるりと背中を向けた。
 丁度その時、昨日君を起こしに来た女性、片桐がフロアにやって来て、君と鹿島をジロジロと見てきた。彼女は、君と恋人を交互に見てから、好奇心を隠そうともせず口を開いた。
「おやまあ、礼田君と鹿島さんがねえ……。いいわね、若いって」
 君は「いえ……、違うんです」と取り繕うとしたが、鹿島の赤く染まった頬を見て、それ以上は何も言えなくなってしまった。
「いいのよ、誰にも言わないから」
 片桐は自分だけが秘密を持ったことが嬉しいのか、笑みを向けてくる。片桐の推測は、決して二人の表情からだけで読み取ったのではないと君は気づく。サイドテーブルに揃えて並べられた二つのマグカップ。そのくっついたカップがキスを連想させたのだ。彼女は鹿島を呼び止めた。
「飲むのはいいけど、このカップ、喫茶リーベのでしょう? 戻しておきなさいよ」
「はーい。礼田君に洗って返しておいてもらいまーす」
 鹿島は、悪戯っぽく笑いながら、おどけた返事をした。
「それと、どうせコーヒーメーカーも持ち出したんでしょう?」
 片桐は、年長者として、けじめをつけなければという感じで注意する。
「それも礼田君、お願いね。私がコーヒーを淹れたのをお忘れなく」
 彼女は軽やかに歌うような足取りで階段へと消えた。
      
 彼女の背中を一緒に見ていた片桐は、君の方を向いて告げる。
「ほら、仕事よ仕事。午前中は六階の催事場に行ってあげて。物産展があるのは知っているでしょう? そこでお買い物をしたお客様の抽選会の受付をお願いね。十一時半くらいになったら、昨日の鰻屋さんが来てくれだって。そこが落ち着いたら……そうねえ、午後二時か二時半くらいかな……、三階の紳士服売り場、お願いね」
 君は十一時半、二時半と繰り返すと、彼女に向かって
「お昼休憩はいつごろ取ったらいいですか? 僕、外に食べに行きたいんですけど」
 と訊いた。彼女は顔を曇らせた。
「ええ、鰻屋で混雑が減ったら食べていいわよ。でも、外って……、百貨店の外? ええ……、休憩は……、法律では店の外に出てもいいことになっているけど、外に出る人なんていませんよ。変わった子ねえ……、そう……そんなに?」
 最後の方は、戸惑っているような口ぶりだった。
「昨日は一度も外に出ていませんし、外の空気を吸いたいもんで」
 すると、片桐の表情がぱっと明るくなった。
「屋上の鍵、貸してあげるわ。お昼はデパ地下のお弁当でも持って、そこで食べるといいわね。寒いから、上に何か着るのよ」
 百貨店から外出するという話は、有耶無耶になってしまった。君の荷物も住む家も「外の世界」にはなく、友人と呼べるほどの人も仲の良い家族もいない。その上、どうしても外に出ないといけない事情もなかったので、それ以上、外出許可を要求する気になれなかった。
 
 
 この日も片桐の指示通り、六階の催事場、レストラン街、紳士服売り場と、三か所の職場を経験した。昼には主が鰻丼を出す代わりに、鹿島が弁当を持ってやって来た。福盛は「お、かつ宮の鹿島さんじゃねえか。やっぱりな、礼田君も隅に置けないなあ」と君の頭を肘で突いてから、厨房へと下がって、重箱を拭くふりをした。その奥さんは、熱いお茶を、君と彼女が向かい合って座るテーブルに持って来て、「さあさあ、後は若い人同士で話して下さいね」と、お見合いの仲人のような台詞を口にすると、笑みをお盆で隠すように覆って、同じく厨房へと下がった。
 鹿島は、恥ずかしそうに目を伏せると、君に紙の箱に入った弁当箱を差し出す。
「さっき片桐さんが来て、『礼田君が屋上でお弁当を食べたがってる』って言ってたから」
 厨房を気にしながら、恥ずかしそうに言った。
 君は外に出たかっただけなのに、望みを誤解されていることに困惑している。
「そうじゃないよ、外出許可を貰おうと話をしたら、屋上を勧められた」
「変なの。でも、そうだと思う」
 彼女は媚びるように首を傾げてみせる。
「じゃあ、屋上に行かなくてもいいのね?」
 彼女は安堵の笑みを浮かべて、自分と君の分の弁当箱の蓋を開ける。そこには、サンドイッチとオムレツ、それに茶色の切り身が入っている。
「気に入ってくれたらいいんだけど……」
 彼女は、顔色を窺うように君の眼を見つめてくる。
「ピクニックのお弁当みたいだね」
 笑ってそう言うと、彼女の顔は華やいでくる。
「こっちは、春レタスとポテトサラダのサンドで、こっちは菜の花とベーコンが入ったオムレツなの。で、こっちは鯖味噌だよ。ちょっと早いけど春の行楽弁当風にしてみたの。じつは周りのお総菜屋さんからちょこちょこ材料貰って、空き時間に作っちゃった。あ、鯖は、和食屋さんからそのまま貰ったの」
 彼女は、ちょろっと舌を出してみせた。君は、サンドイッチを一口齧ってみる。キャベツの甘さがジャガイモの風味と混じり合って口の中で溶ける。
「足りなかったら、私の分も食べていいんだからね?」
 君は美味しいと感想を言う。その頃には、外に出たいという願望が頭から消えているだろう。
 人生で初めて女の子に弁当を作ってもらうという幸福を噛みしめながら、三階へと降り立った。そこで威圧感のある敷島という主任を前に、浮かれた心のベールを剥がされてしまう。筋肉質の体にぴたっとしたスートを纏った男は、五十くらいであろうか、四角形の顔に飛び出た頬骨と鋭い目が特徴的だった。その目で君をじろりと見ると、低いがよく通る声で告げた。
「スーツをご覧になっているお客様の邪魔をするんじゃない。質問がありそうな時に飛び出していくんだ。ショーケースを見ただけですぐに飛びつく宝石屋じゃないんだ、気をつけろ」
 微笑みを浮かべて「何かお探しでしょうか」と言って、相手に煙たがられた君を注意した時の言葉だ。その仏頂面の男の表情は、厳しい人生を歩んできたそれを思わせるものだった。
 業務中は言葉少なに、レジの打ち方、商品の包装の仕方だけを教え、後は黙って見張るように立っていた。閉店時刻近くになって主任から「はい、ご苦労さん、明日も頑張れよ。初日にしては悪くなかったぞ」とドスの利いた声で言われた時、悪い人ではないと君は重い、ほんの少し幸福で充実した時を過ごしたという感慨に浸る。しかし、閉店の音楽が鳴ると、たちまち慌てだし、早く店から脱出しなければという思いに駆られる。それと同時に、脳裏に浮かんだのは鹿島の顔だった。
     
 まだ曲は鳴っている。今のうちならエスカレーターか階段で降りて一階から外に出られる。しかし、今日外出したら翌朝の開店時刻までは戻れないだろう。それに資金も乏しい。ポケットに入っている昨日の日当は多くはなく、今日の日当はまだ受け取っていない。一万ほどのお金、外で食べてどこかしらに泊まったら、あっという間に無くなってしまう。勿体ない。君は、階段へと早足で向かっていたが、急に歩を緩める。ここにいれば、金を遣わないでいいし、泊るところを探さずに済む。しかし、ずっとここから出られないなんて刑務所みたいじゃないか。自由がないなんて……。自由? 外で金がみるみる減って、友人も家族もおらず、常に安い賃金の仕事を渡り歩く生活が自由? 様々な思いが君の足をますます重くする。かろうじて暗い階段に辿り着き、そこから一歩一歩考えながら降りてゆくが、鹿島に黙ってここから居なくなることに後ろめたさを感じた――特に彼女と何かの約束をしたわけでもないのに。恋人でもない、嘘の恋人。嘘の愛の囁き。その記憶が二三段のステップを降りたところで君の足を完全に止めてしまう。諦めて、またフロアに足の向きを変えると、呪縛は都合よく外されたようになり、再び紳士服のフロアに戻る。
 まだ彼女がいるはずの「かつ宮」まで行って、「今日は外で過ごす」と一声かけた方がいいのだろうか? 強面の主任があわただしくマネキンを動かすのを遠目に見ながら考える。今日五階のインテリアコーナーに行かなかったことで、彼女は君との間にあったことを君が後悔していると勘違いするかもしれない。考えるほどに君の足はそこだけ重力が巨大になったように重くなり、再び動けなくなる。速度を速める閉店の曲、もう三回目ともなるとリズムが口をついて出てくるようになっている。客は元々夕方からめっきり少なくなっていたが、店員を含めて、人の気配がほとんどしなくなった。先程マネキンのあった場所に目を向けると、すでに主任は居なくなっていた。
 それから突然曲が止んだ。しかし、昨日までと違うのは、下に向かう階段への入り口がぽっかりと口を開けて待ち受けていたことだ。もしかしたら、ここから一階へ行けるかも。君は電気が消えて真っ暗になった深淵に足を踏み入れようかと考える。しかし、その闇の口は、獣を捉える罠のように待ち構えていて、頭とは裏腹に足がどうしても向かわない。静寂と闇が待ち受ける前で、君は踵を返して昨日のエレベーターを探すだろう。
      
昨日と一昨日、エレベーターは地下一階で待っていて、君はそこから乗って五階でしか降りられなかった。もしかして、三階には止まらないかも。そう呟いてみたが、心の底では乗ることだけはどこからでもできそうな予感があった。
 フロアからは客も店員も突如として消えた。森閑とした世界、これが三度目となったので、もう驚かない。先ほど敷島が立っていた場所に展示されたままのネクタイをそっと撫でてみる。絹の糸の流れが優しく君を押し返す。ふわりと指を離し、コートの並ぶ隣の店舗を表示通りに右へと曲がると、君の忠実なる下僕のように、エレベーターが扉を開けて待っていた――。
 やっぱりな。君は躊躇うことなくエレベーターに乗り、インテリアコーナーのボタンを押す。昨日一昨日と同じだ。これが円環のように今後繰り返されて歳をとってゆくのだろうか? 毎日同じ職場で過ごし、外出もしないで家に帰るだけのサラリーマンみたいに。君は自虐的な笑みを浮かべる。
 ほんの数秒でひとつ上の階に到着し、エレベーターはガシャリと扉を開いてその仕事を終える。そこにはピンクのタオル地のワンピース姿の鹿島が、不安そうな目で君を見つめていた。
「おかえりなさい」
 冗談めかした口調だが、顔は嬉しくてたまらないといった様子で、大きく両手を広げて伸ばしてきた。君は彼女を抱き止めるが、その勢いでエレベーター内に押し戻されそうになる。彼女は、君の胸の中で臭いを一生懸命に嗅いでから顔を上げる。
「『岩窟王がんくつおう』の厨房借りてハンバーグとステーキ焼いちゃった。食べるでしょう?」
 頷くと、彼女は待ち切れないと言った調子で手を握って、テーブルへと引っ張ってゆく。
 ダイニングテーブルには、百貨店の包装紙で作ったテーブルクロスが敷いてあり、その上には鉄のプレートに乗ったハンバーグと細く切ったステーキ、いくつかの野菜があった。
「岩窟王特選メニュー『ラージハンバーグとステーキコンボ』でございます。味が再現できているか不安だけど、ソースも借りたから」
 君はお腹が空いていたので、ご馳走を前に気分が高揚するのを感じる。夢のようだ。出て行かなくてよかった。少なくとも今日は。先ほどまで、百貨店を出ようかどうかで迷っていたのが嘘みたいだった。しかし、彼女の「テーブルを汚さないようにね」の一言に、現実に引き戻されるだろう。
 全ては借りものなのだ。このテーブルも椅子もインテリアフロアの展示品に過ぎない。
「お皿とシルバーは、岩窟王から借りてきたの」
 彼女は、はにかみながら言う。それだけではない。君が二晩眠ったベッドも、きっと彼女が着ているルームウェアも――食べたものは給料から天引きされるだろうが――全てが百貨店のもので、君達のものではない。自分で手に入れたものでもなければ、譲り受けたものでもない。ただ、使用を黙認されている……。その皮膜を剥がされて見えた現実が、君の寄って立つ地盤を危うくしているようだった。
「私、変なこと言った? 気に障った?」
 首を振って、彼女がフォークに刺して差し出す肉片を口にする。肉汁とステーキソースが甘く混じり合い、口の中で溶けて芳醇な香りが鼻から抜けてゆくのを感じ、頬がほころぶ。借りものの食器で、仮の恋人から受ける奉仕は、不自然さと、アンバランスな感覚をもたらすが、味わったことのない幸福に慣れていないからだと自分に言い聞かせる。君が食べる姿を鹿島はうっとりとした目つきで眺めている。そう、君の口元を……。
 
「今日、本当は百貨店の外で泊るつもりだったんだ」
 彼女の反応を見ながらぽつりと洩らす。怒るかもしれない。予想に反して、彼女は眉をほんの少し吊り上げただけだった。
「それで? 出られなかったのね」
 優しい問いかけ方に、ほっと息をつく。罪悪感を持ってしまうことを直接は言えない、と心に呟く。
「いや、わからない。試そうとはしなかったから」
「私は出られなかったの。どうしても出口が見つからなくて……」
「見つからないって?」
 彼女は何も言わずに首を振る。
「君に……、外で泊ることを言ってなかったから行けなかった。自惚れかもしれないけど、黙って居なくなったら、君を失望させるかと思って……」
 笑われるかも、という不安に襲われる。しかし彼女は、君の手に自分の手を重ねる。
「嬉しいわ。もし居なくなっていたら、私、悲しみの中で、寂しく夜を過ごしていたかも。ううん、あなたを縛るつもりはないのよ。でも……やっぱり寂しいから」
 そう言うと、指を伸ばしてきて、君の口についたソースを拭ってみせる。その仕草は、初めてこんなことをしたと言わんばかりに、羞恥で顔を赤らめながらの、ぎこちない動きだった。
「好きよ……」
 彼女はテーブル越しに、身を乗り出してきて、キスを迫る。
      
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