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石造りの迷宮 第四話
第四話
昨日と同様、どの店からも従業員も客もすっかり消え失せていた。これが初めてだったら度を失っただろうが、二度似たような状況に置かれると、それがこの百貨店のルールのような気さえしてくる。君は「今日こそは店の外に出て……」と呟いてみるが、給料や荷物の不安が頭をもたげてくる。まずはフロアマネージャーでも探そうと、かつ丼屋のガラスケースの内側に大胆にも入って行き、内線電話を探す。それは調理スペースの脇の壁に立て掛けるように置いてあったが、連絡用の内線番号がどこにも書いていないことに気づき、君はすっかり途方に暮れる。周囲を見渡してから、上に行けば誰か一人くらいは残業をしているのではないか。そんな考えが頭に浮かぶ。
君は先ほど来た通路を引き返し、果物屋から高級食パン屋の方へと向かう。食パンのショーケースの中もすっかり空になっているのを横目で見ながら、降りてきた階段の前に立つ。そこは、すでに熱い鉄の扉がそびえていて、びくともしない。やはり……昨日と同じだ。目を上げるとエレベーターの場所を示す表示があった。天井の方を見ながら和食弁当や惣菜が並ぶ店舗を抜けると、エレベーターが扉を開けたまま君を待っている。迷わずそれに乗り込むと、すでに五階へ行くためのボタンが押されていて、扉がゆっくりと閉まる。
上昇するエレベーター内で、ささやかで無駄な抵抗を試みる。地下一階から屋上までのすべてのボタンを押してみたのだ。結果は、君がとっくに悟っていた通り。
エレベーターが五階で停止すると、君が出るまで扉が開いたままだった。諦めて五階の――昨日と少しも変わらない――インテリアフロアを眺める。昨日歩き回ったが、まだ気づいていない秘密の階段や事務所に通じる廊下があるかもしれない。だから、もう一度回ってみることにする。
浴室のショールーム、家具売り場、着物の展示と回ってみたが、階段に通じる場所は扉によって封鎖され、従業員用の通路も見つからなかった。昨日見て回った時と同じだ。
――今日も閉じ込められた。
君はため息をついてみせるが、昨日ほどには失望せず、黒地に金と赤の糸が織り込まれた、いかにも高級そうな着物を見て感心し、その下に表記されている値段を見て驚愕する。
昨日眠ったベッドに腰を掛け、まだほんのりと温かいかつ丼に手をつける。昼は鰻重で夜はかつ丼、カロリーが高そう、などとぼんやりと考え、久々に栄養のある物を摂っている満足感に頬を緩める。茶色に染まったご飯粒をうっかり布団の上に落として、周囲の物すべてが何ひとつ君の物ではないという現実を突きつけられる。布団には黄色の小さな染みが残る。一旦食事を中断し、トイレに行ってそこにあるハンドソープを展示品のハンカチで浸して布団を叩くことにする。何度も繰り返しているうちに、茶色の染みはほとんど見えなくなってきたので安堵する。
食事の後、昼間言われた通りに、シャワーを使ってみようと思い立つ。何台ものバスルームの展示の中で、ひとつだけ、シャワーカーテンに囲まれているバスタブがあった。
淡いピンクのシャワーカーテンをそっと開けると、昼間聞いていた通りに何枚かのタオルがバスタブの中に畳んで置いてあった。君は二枚だけを取り出し、残りを濡れないように隣のバスタブにそっと置く。シャワーカーテンの内側、つまりバスタブの中で靴下を脱ぐと、裸足に陶器のひんやりとした感触が伝わってくる。
ここまできて入浴できるのは違うバスタブでした、なんてことはないだろうな。服をすっかり脱いだ君は、シャワーカーテンに引っ掛けてあるシャワーヘッドを取り、そこにあるスイッチを押してみる。予想通りに水が出て安心したが、それは跳び上がるほど冷たく、慌てて水流をバスタブの中に向ける。二十秒も経っただろうか、シャワーの先端から湯煙が出て、君の足元を温める。近代ヨーロッパを思わせる円形を引き延ばしたような形のバスタブは優雅で、頭の所にある金色の天使のレリーフがとても贅沢な雰囲気を漂わせている。天使の傍に置いてあったシャンプーとボディソープを頭と体に存分に塗って、泡立ててシャワーで一気に流す。
バスタブに湯が溜まってきたのを見て、底の栓を一旦抜いて泡だらけの湯を捨ててしまおうかと考える。しかし、本当に栓の下が排水溝に繋がっているのだろうか? 一抹の不安をおぼえ、シャワーを一旦止めて、バスタブの下を外側から体を屈めるようにして覗き込む。バスタブの下の方はよく見えないが、僅かに水が漏れて流れる音がし、一方、バスタブの周囲からは水が零れている様子はない。君は、思い切って栓を抜いてみる。すると、お湯は渦を巻いてみるみる穴の中に吸い込まれてゆく。慌てて再びバスタブの周囲を見てみるが、どこにも水が漏れている様子はなく、これで安心してお湯を溜められると心の中で呟く。
ゆったりと溜めた湯に浸かり、ふうと大きく息をついてみる。頭の中で誰かと間違えられバイトとして採用されたやましさが甦っている。そんな焦がしカラメルのような苦さは、働いたんだ一日、という充実感にとって代わる。そうだ、働いたんだ、日払いで……、そこに思い至った時、給料を日払いで受け取っていないことに気づく。ただ働き。しかし、フロアマネージャーや鰻屋の主人の人の良さそうな表情を思い出し、明日には二日分貰えるだろうと思い直す。
湯船の湯で顔を洗うと、バシャと湯の音を立てて立ち上がる。その時には、さっぱりとした気分で疲労も軽くなっているのを感じるだろう。
体温が上がった心地良さにすっかり満足してベッドに戻ると、布団の上が入浴前と変わっていることに気がつく。そこには見慣れた君のリュック、茶色の封筒、そしてリュックから取り出されたらしい折り畳まれたスウェットの上下が置いてあった。スウェットを手に取ると、使った覚えのない柔軟剤の香りが鼻腔に広がってくる。これは誰かが洗濯してくれたに違いない。リュックもネットカフェから持って来てくれたんだ。
嬉しさと同時に、物音ひとつしないフロアに誰かが荷物をそっと届けていたという不気味さが君の背筋を撫でる。
「片桐さん? 那由多さん? 川上さん?」
君は大きな声でフロアにいたかもしれない人の名を適当に呼んでみる。しかし返事はなかった。きっとここに僕の荷物を置いて帰ったに違いない。帰った……、ということはここから下に抜ける通路があるのか? そう思ったが、裸にタオルを腰に巻きつけただけの君は、今更服を着て出口を探して帰ろうという気にもなれない。少し怖いが、明日礼を言う相手を探せばいい。そう思ってネットカフェではパジャマ代わりにしていたスウェットに袖を通す。
荷物の中身を確かめると、タオル、洗面道具、替えの下着、スマートフォンに充電器と、君が置いてきたものは何ひとつ欠けることなく揃っていた。封筒を開けてみると、中からは一万円札が一枚と小銭、それに明細書が出てきた。その小さな紙片には時給と控除された税金や昼食代の数字が羅列されていた。現金は使う場所がないとたちまち魅力が薄れ、それを封筒に戻してリュックに仕舞うと、布団を被って目を閉じることにした。昨日と同様、天井の眩いばかりの照明は、君が布団に入ったのを合図にしたかのように、順に消えていった。
森閑とした世界、仄かに天井から暖かい空気がモーター音と共に降ってくる。明日こそは外出して……、でもどこに? 君は長く泊まっていたネットカフェを我が家のように感じていたが、そこへの郷愁に似た思いも、すでに薄れていることに気づくだろう。
百貨店の柔らかい羽毛布団にくるまれる。すると眠気が急激にやって来て、とても我慢できなくなる。その寝心地の良さに幸福な気持ちが湧いてきて、ずっとここに住むのも悪くないと思うだろう。この静謐が続く限り。
引き摺られそうになった夢の世界はあっさりと中断された。
音! 足音? 何かがぶつかった音? 君は耳を澄ましたまま、やおら起き上がって暗闇に目を凝らす。暗闇は静寂そのもので、あれは夢の中の物音を現実と混同したに違いないと結論づけようとする。しかし、一度聞いた物音は容易に意識の外に追いやることができず、その印象を引き摺ったまま、遠くの闇を見つめ続ける。目が慣れてくると遠くのシャワーカーテン、ダイニングテーブル、食器棚といったものが徐々に形を成して君の脳裏に照明があった頃とのイメージと一致してくる。あの音は気のせいだったのだろうと、体を元の寝姿に戻そうとした時、今度は聞き違いようのない確かな物音が聞こえてきた。
横になる代わりにベッドに手をついて立ち上がり、裸足のまま一二歩歩いてみる。吸いつくような足裏の感覚を味わってから、耳に意識を集中させ、どんな音も聞き逃さないように努める。
音は何ひとつしない。
ずいぶんと長い間に君は焦れてくる。居ても立ってもいられなくなってきた。幽霊というものを信じているわけではない。それよりも、不審者がここに居るかもしれないと思うと、背筋に感じる冷たさが増してくるのだ。
「だ、誰かいますか? まさか泥棒じゃないでしょうね」
昨日は従業員でもないのに泊ったやましさが君の心に針を刺したが、不安と恐怖に支配された心は、その前提をすぐに忘れさせた。一歩足を運ぶ度に首を振ってあたりを見回す。寝ていたベッドとは違うベッドにあるサイドテーブルの上にぼんやりと見えた電気スタンドを掴む。武器代わりだ。それを引っ張ると、コードがコンセントに繋がったままなので、引っ張られて後ろに転び、その瞬間、思わず「うわっ!」と大きな声を出してしまった。
「大丈夫ですか?」
女性の声と共に、タ、タ、タ、という低い踵の靴音が近づいて来た。
「ええ?」君は尻もちをついたまま跳び上がりそうになったが、すぐに記憶の中で聞いたことのある声だという信号が脳髄を揺らしたので高まった動悸はすぐに鳴りを潜めた。
天井の照明が再び端から点いてきた。君の目の前にいるのはエプロン姿の「かつ宮」の従業員鹿島だった。彼女を見て頷くと、彼女はすぐ傍までやって来て
「お怪我はありませんか?」
と尋ねてきた。その心配そうな顔を見て、安心したと共に昨日の孤独から抜けられたことを実感し、思わず笑みがこぼれていた。
「ほら、掴まって」
差し出される手を握ると、温もりが伝わってくる。この日もひとりで誰の気配も感じない――ネットカフェでは誰かと仲良くなることはなかったが、それでも周囲の寝息、ドリンクを注ぎに行く音、会計レジの電子音が君を慰めていた――孤独地獄から解放され、尻に感じた痛みたちまち消えてゆく。
「怪我しなかった?」
彼女は小悪魔のような含み笑いを浮かべながら、君の眼を覗き込む。顔の距離が近くなったことで、耳まで赤くなり熱を帯びているのを感じる。
「全然、怪我なんかしていませんよ。スタンドに引っ掛けちゃって」
そこで思わず手を離していた電気スタンドを探すと、彼女は床に落ちていたそれを拾いあげ、
「よかった。傷はついてないみたいよ」
と言いながら、サイドテーブルに戻していた。
「あの……、鹿島さんは残業ですか? 僕……昨日と今日、百貨店に閉じ込められて……」
君の言葉に、彼女は考え込むようなそぶりを見せた。少しの間……沈黙が流れ、やがて話すことをまとめたかのように小さく頷くと、口を開いた。
「私もなの。実は……、この百貨店から帰ろうとしても帰れないのよ。閉店の音楽が鳴り終わると、エスカレーターや階段に通じるシャッターが閉じて、一階へ行くエレベーターも動かなくなるの。それが毎日」
自分の置かれているのと全く同じ状況になっていることはわかったが、そこでひとつの疑問が湧いてくる。
「その……じゃあ、昨日も僕が泊まっていたことを鹿島さんは知っていたんですよね? どうして声をかけてくれなかったんですか?」
それを聞くと、彼女は怯えたような、それでいて少し怒ったような声を上げた。
「誰かがここにいるとわかっていたけど、声をかけられるわけないじゃない。どんな人かも知らないし」
「従業員しかいないんじゃないですか?」
君は、不思議そうに訊く。
「それが本当かどうか確かめるすべがないじゃない。店員はここに泊まれるということは聞いているけど、私以外の誰かが夜ここに居るなんて経験、昨日が初めてだったもの」
君はベッドに座るように促され、腰を下ろす彼女に合わせる。深く沈み込むマットレス、自分の腰の下からだけではなく、隣にもへこみがあるので、そちらに体が傾きそうになる。
「初めてって……、あなたはいつからここに泊まっているんですか?」
「もう半年以上になるかな。最初は梅雨時期で、雨傘の特設会場を手伝っていたから。透明なビニール傘にピンクのモンスターの描いてあるフランスの傘、欲しかったなあ」
彼女は懐かしそうに目をうっとりとさせた。
「半年もですか……。その間一度も家に帰っていないんですか? 閉店前に抜け出すなんてことは?」
仕事を辞めるまでここで生活することを想像すると、この石造りの建物が、巨大な刑務所のように思えてきて、うんざりする。
「一度もよ。閉店まで仕事をして、ここに泊まるの」
「休日とか、仕事が休みの日は?」
彼女は君の言葉に首を傾げる。
「そう言えば、あんまり休んでないかなあ。特に最初の頃は。そのうち、仕事したくない日は休んでもいいって――ほら、女の子の日とかね――かつ宮の店長に言われたけど、休んでもデパートで時間を潰すだけだし。ここから外に出るのって怖くない? それに外には楽しそうなものもないし、買い物はここで買えば割引が利くから……、出ようとも思わなくなっちゃった。通勤も楽だし」
君は、一度も外に出ない彼女を不思議に思い、次に浮かんだ疑問を投げかけてみた。
「でも、ご家族は心配しているんじゃないですか? お父さんとか」
「ねえ、礼田君。夜だけでも敬語やめないかなあ」
鹿島は、甘えるような声で言った。
「ここには、私と君しかいないんだから、ね。敬語を使われると、仕事とプライベートの区別がつかなくなるよ。残業しているみたいだもん、いくら嫌いじゃない仕事でもね」
「はい、いや……、うん。でも仕事好きなんだ?」
急に敬語を無くすことにぎこちなさを感じながら話してみると、彼女の薄い唇から笑い声が漏れた。
「そうねえ、仕事が好きというか……。人間関係がいいんだよね。店長優しいし他のパートさんも気さくだし。仕事って、誰と一緒に働くかで居心地の良さが変わると思わない?」
なるほどと思って頷く。今朝起こしに来た片桐さんや支配人の顔が浮かぶ。
「あの人たちはみんな帰ったんでしょう? ……帰ったのかな」
彼女はまたクスッと笑って、さりげなくベッドで体を支えている君の手に自分の手を触れさせてくるだろう。緊張が高まって、声がうわずりそうになるのを必死で抑えている。
「いい人だけど、みんな定時で帰っちゃうのよねえ。いつも片づけをしていたら誰も居なくなっているのよ」
「明日こそは帰らないと、外がどうなっているのか。二日も外を見ていないと、世界から取り残されたような気になるし」
君は、彼女の体温を気にしないふりをして、さりげなく会話を続ける。心臓がバクバクと音を立てていて、こっそりと深く息を吸って落ち着こうとしている。
「変なの」
彼女は不思議そうに細い目をじっと君に向けてくる。
「そんなに帰りたいの? 独身なんでしょう? そうか、家のことが心配なんだね」
君は黙って首を振り、ぽつりぽつりと自分の置かれている状況を放し始める。家賃が払えず住む家を失ったこと、親とはずっと連絡を取っていないこと、お金がなくて、ここ何年も恋人はおろか友人もいないことを、恥ずかしそうに言う。彼女はそっと触れるだけだった手で君の手を取ると、手のひらを上に向けて、大胆にも握ってきた。先ほどよりは心臓が暴れなくなったが、やはり緊張でビクッと身を震わせる。しかし、手のひらのしっとりした彼女の湿り気が君の手を濡らすにつれて動揺は収まり、心地良ささえ感じるようになった。
「鹿島さん……、いや、君はどうなの? 家を放っておいてもいいの?」
前のダイニングテーブルを見つめたまま尋ねる。彼女は息を君の耳元に当てるようにしながら話す。
「私ね、ずっと前から家に帰ってないの。千葉から出て来て……。ほら、親と仲が良いとは限らないじゃない。新宿歌舞伎町に行ったら泊るところはどうにでもなると聞いて、出て来たの。そこで、知り合った子たちと共同でビジホに泊まったり、夏は路上で酒を飲んだりしてたの。軽蔑する?」
ああ、トーヨコキッズとか言わなかったかな?
「テレビで見たことあるよ。友達沢山いたでしょう。会えなくて寂しいんじゃない? 連絡とってる?」
君はテレビの映像だけでなく、偶然通りかかった時の光景をも思い出す。金色や銀色に髪を染めた少女たちが、地べたに座って、酒や市販薬の薬を飲んでいた。その記憶と、目の前の清楚な雰囲気の彼女とはイメージがまるで違う。
「ううん、一瞬で仲良くなるけど、すぐに壊れる。暴れる子もいたし、ちょっと怖かったし、泊るところがなかったから仲良くしているふりをしただけ。ここに泊まれるようになったら、あそこの子たちの顔も忘れちゃった」
彼女は舌をちょろっと出して笑ってみせた。
「ねえ、礼田君の荷物、ここにあったでしょう? これ、あたしが運んだのよ。家がないんだったら、外へ何しに出たいの? やりたいことでもあるの?」
君はそう尋ねられて困惑する。
「本を買いに行くとか、かな」
「書店は七階にございます」
彼女は、ふざけて案内嬢風に言う。
「旅行に行く、かも」
「家賃払えなかった人が、旅行なんて行けないよ」
彼女は声をあげて笑う。しかし、爽やかで嫌味がこもってないので、さほど不快ではない。
「映画……何年も観てないけど」
「ここで配信サービスを使えば観られるじゃない。そんなお金かけなくても。あそこのマッサージチェアにもたれて、パソコンとプロジェクター借りましょうよ。迫力あるよ」
「借りられるの?」
君は、横目で彼女の顔をちらりと見る。彼女は目を細めてじっと君が見つめ返すのを待っている。その距離が思ったより近くて、気づかないふりをして、前方のダイニングテーブルに目を戻す。
「パソコンは、支配人の川上さんから借りられるし、プロジェクターは二階婦人服売り場で展示用に使っていたから、それを借りればいいのよ。今度主任に話をしてみる。翌朝に返せば問題ないよ」
「そこまでできるんだ……」
「私、たまに映画やドラマの配信を観てたのよ。礼田君が大画面で見たいなら、セッティングするよ」
君は笑って首を振る。握られた手のぬくもりにもようやく慣れて、包まれた中で少し動かす余裕も出てきた。
「他に外でしたいことがある? どうしてもあるなら、引き留めはしないけど」
返事をしようとすると、彼女の息が耳にかかる。くすぐったく感じ、思わずその顔を見る。その娘は、ずっと前からこうしていたのではないかというくらい自然に顔を近づけ、そうするのが当然という風に、笑みを浮かべたまま目を閉じてきた。唇から漏れる仄かな甘い香り。君は、彼女に腕を優しく引かれるのに任せて目を瞑る。引力に任せたものの、唇を合わせにいったのは君だった。しかし、主導権はすぐに彼女に戻され、唇が彼女の舌で押し開かれると、「好きよ」という吐息交じりの声が漏れてきた。吸った舌先からは嘘の味がする、そう思った。
そのまま、彼女に導かれるようにベッドに倒れると、スイッチを押したようには見えないのに、遠くから照明が一列ずつ消えてゆき……。
目を覚ますと、どこからか忍び込んだ光が、明け方を告げている。隣には、君が作ったものではない微かなへこみを指先が感じ取っている。いや、反発力のしっかりとしたベッドなので、それは気のせいだということにすぐに気づくだろう。しかし、残っている温もりは確かに鹿島が君と一緒に寝ていたことを示しており、幸福とは違う――空虚が埋まったような感覚――満足感を味わうが、そこにもう彼女が存在しないことに、つれなくされたような失望をすぐに感じるだろう。
コーヒーの香りが、どこからともなく君の鼻腔を満たす。ペタペタとした歩きにくそうなスリッパの音に、思わず笑みを浮かべて振り返る。
彼女は目を細めて、パジャマの上だけを着た格好でカップに入ったコーヒーを差し出し、はにかんでみせる。
「おはよ、コーヒー飲めない人だっけ?」
組は首を振り、両手でマグカップを受け取る。その時、彼女の指に触れて恥ずかしさにうつむくだろう。
コーヒーを啜る君の顔を、鹿島はじっと見つめている。まるで、毒殺する時に、相手がそれを飲んだかどうか見届けるように。そして、喉を鳴らしたときに浮かべる怪しげな笑みも、毒を盛った時のそれと同じようだ。
君は、じっと見つめられることに居たたまれなさを感じる。彼女は自分のコーヒーをいつの間にか寄せていたサイドテーブルに置くと、すっと立ち上がった。
「シャワー浴びようかな……。礼田君も一緒に入る?」
大きすぎるパジャマの襟からのぞく首を巡らせて、肩越しに視線を送ってくる。羞恥で耳まで血液が昇っている君を見て、ようやく手を緩めてきた。
「嘘よ。入ってくるから覗くんじゃないぞ。覗いてもいいけど」
冗談めかしてそう言うと、スリッパも履かずにバスタブの方へ向かい、シャワーカーテンを開けていた。
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