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石造りの迷宮 第九話
第九話
「はい、十三・二センチなので十四センチくらいでも大丈夫だと思います」
君は子どもの足を測定する機械を操作し、パソコンに写し出された画像を見てから、お客の母子に微笑む。
「そしたら沼田さん。十四センチの靴をバックヤードからお願いします。箱の中身を確認してね」
子ども服売り場の真向かいにある、子ども靴売り場を手伝うことになった。靴の知識はないが、新人で何もわからないという若い女性店員が、足のサイズ測定ができずに泣きそうになっているのを見かねて助け舟をだしたのだ。この、髪を金色に染め抜いた彼女によると、今朝から、日雇いとしてここに来たという。指導するはずの店舗の主任は突如居なくなってしまったらしい。それは、新人に任せて休憩に入っただけなのか、それとも……。
君は、自分の店舗もあるので支配人に電話を入れて応援を寄越してもらおうとしたが、生憎支配人は不在だった。仕方なく子どもの入園式の服と靴をひと揃い買いたいというお客のために、靴のサイズを計測し、今度は君の子ども服売り場の店舗に案内し、入園式のジャケットやズボン、シャツがセットになった服を何着か見繕ってガラス台の上に並べてみることにする。
「服は百十、いや百二十センチの方が長く着られますかね」
君が紺色に染められた小さなブレザーを持ち上げた時、目の端でエスカレーターを急いで駆け降りる支配人の姿を捉えた。そのままそちらに目を向けていると、鰻屋の店長鴨田と坊主頭の店員も一緒に焦ったように降りて行くのが見える。
何があったのか訝しんでいるうちに、いつの間には客の多くがエスカレーターに乗り込もうと列を成し、子ども服売り場の周囲は人がエスカレーターに吸収されてしまったように森閑としていた。残っているのは君の客である母子だけだ。
「ちょっと何かあったのかもしれませんね。失礼します」
君は母親に告げてから通路に出る。
エスカレーターに並んで降りようとする人の群れに近づいた。その顔は、好奇心や怯え、悲しげな表情といった様々な感情が現れていた。列は順番に進んでいるが、どこにこんなにお客が居たのかと思う程、行列の長さは長くなっている。君は行列を整理するふりをしながらどうして降りようとするのか尋ねようか思案する。もしかしたら下でイベントでもあるのではないか? しかし、そんな連絡は聞いていない。
「救急車はまだかしら?」
列の前の方にいる夫人が、前の女性に不安そうに話しかけているのが聞こえた。
「助からないわね」
前の女性がそう言った時、嫌な予感がして思わず立ち止まる。背中に寒気が走る。何が起きた? どこで? 近くなのか? 二人の女性は少しずつ進む列に歩調を合わせつつ、話し続ける。
「落ちたらしいですね」
「飛び降りかしら? 怖いわあ」
君はそれ以上黙っていられなくなった。誰が……誰が落ちたのか? 知り合いではありませんように。心の中で祈りながら二人の女性に話しかける。
「あの……飛び降りって、ここでですか?」
「ええ……そうみたいよ」
前の女性が眉をひそめて答える。
「だ、誰ですか?」
その問いに二人の女性は揃って首を傾げるだろう。
列がまた少し進んだ。その時の上の階から降りてくるエスカレーターに、片桐が乗っているのを見つけた。彼女は「すみません!」と叫びながら人いきれを掻き分けるようにして、少しでも早く下に降りようとしていた。
「片桐さん! 一体何が……」
大きな声で呼ぶと、彼女はその声に反応し、体を微かに震わせた。しかし、彼女は確かに聞こえたはずなのに、君の方を振り返ることなく、四階に着くとすぐに更に下の階へと続くエスカレーターへと乗り替えた。
君はとうとう我慢できず、列に並ぶという暗黙のルールを破り、強引にエスカレーターに乗り込むことにする。掻き分けた人達から非難めいた視線を向けられる。サラリーマン風の男、老夫婦、若い女性のグループ。そういった人達は、君が体を入れて押す度に、顔をしかめ、中には怒りを表明する者もいる。それでも、それぞれのお客が、君の只事ではない表情を見て取って、少しずつ通路を広げてくれる。ようやく、エスカレーターに乗り込むと、体を横向きにして、二人ずつ並んで立っている場所の隙間をすり抜けてゆく。
エスカレーターは、以前ここから出ようとした時と同様、二階までしか存在しなかった。前と同じくエレベーターを使うしかないと思った。ところがエレベーター前には、客達が五六人ずつ並んでおり、それは長蛇の列を成していた。絶望的なエレベーター前には頭、頭、頭の群れ。君はこの群衆を押しのけることを諦め、階段を探すことになる。人の居ない方向に進むと、レースの猫の模様が刺繍されたハンカチ、星模様のドレスのような服が見えた。そこを通り抜けて曲がると、今度は女性用の下着と靴下がずらりと並ぶ売り場が見える。更にそこを曲がり、タオル地のパジャマ専門店を抜ける。角を曲がるたび、店舗と反対側にあるはずの非常階段の扉を求め、懸命に探している。
しかし、階段に続く扉は見つからない。横に飾られている黒地に金銀の刺繍が施されたスカーフをちらと目にすると、そこの角も曲がる。君は走ってはいけないという店員のルールを破りかける。何しろ、もしかしたら、この百貨店の誰かが事故に遭ったかもしれないのだ。スカーフを通り抜けて、大きな花模様がブランドイメージになっている婦人服を目にし、その角を曲がると、エレベーター前の群衆がさっきよりも数を増してひたすらエレベーターが来るのを待ち望んでいる光景が目に入る。しかし、二基あるエレベーターの扉の上にあるランプはどういうわけかどちらも点灯しておらず、動いていないようだ。君は、踵を返して先程見たスカーフやパジャマ、ハンカチと次々と目印代わりに見ながら、再び階段を探す。息が切れてきて焦りだけが募っていく。グルグルと同じ場所を巡っているようで、酸素が段々と薄まり、代わりに頭の中には回転運動による陶酔感が生まれてくるだろう。それでも絶対にあって欲しくない事、考えるだけでもおぞましい事――落ちたのが二か月ほど前に君の元から去った愛しい恋人だという結果――を確認するために、精一杯の早足で歩き続ける。
やはり、一階へ続く階段は見つからず、エレベーター前の人で埋め尽くされた場所へと戻ってきた。もう一度、もう一周して階段を探そう。そう考えて群衆に背を向けた時だった。
「礼田君! 何をしているの?」
いきなり肩を掴まれ、驚いて跳び上がりそうになる。振り向くと、先程見かけた片桐が不安そうな表情で君を見つめている。
「ほら、あなた四階の子ども服の店長でしょう? お店をほったらかしてどうするの?」
彼女は、咎めるような口調で言ったが、その声には自信がなく、君がここに居ると不都合だというような焦りが滲み出ていた。君は動かずじっと彼女の目を見つめる。すると、片桐は笑ったが、それはどこかぎこちなく無理に作った笑顔に見えるだろう。
「さっき、気づきましたよね、僕に」
「え、何の事かしら」
問い詰めて戻ってきた返事は、どこか白々しく、君に怒りを感じさせるだろう。
「隠さないで下さい。この百貨店で何かあったんですよね」
彼女は慌てて人差し指を自分の唇に当て、君もすぐに声をひそめるだろう。
救急車の高い音が聞こえてきた。
「さあ? 事故はあったけれども、それは私達で対処するわ。礼田君は持ち場に戻って」
年長の女性らしい雰囲気を醸し出そうとそう言ったが、君には彼女が動揺しているのがわかる。よく見ると片桐の顔は青ざめ、唇は微かに震えている。
「飛び降りですよね? さっきお客様が噂されていました。落ちたんですよね」
彼女は何も答えない。代わりに、泣き出しそうな表情になっている。君はそれを見て気の毒に思えてくるが、真相が知りたいという欲求に抗うことはできない。
「誰、誰なんですか? このデパートの関係者ですね? ええ……答えていただけないのなら、僕が自分で行って見てきます」
頭を下げて、彼女に背中を向ける。歩き出そうとした時、君の両腕は彼女にしっかりと掴まれているだろう。
「待って……。教えるから……教えるから。冷静に聞いて……ね」
いつの間にか救急車のサイレン音が消えていた。きっと現場――この百貨店のどこかに――に着いたんだ。君はそう確信する。
「落ちたのは、鹿島さんですよね?」
目の前に回り込んだ彼女は、静かに頷いた。違うと言ってもらえるかもという、君の最後の希望は、消えた。
「屋上……屋上に上がって行ったらしいのよ。それから……」
彼女は、サイレンが消えて周囲が静かになったので、もう一段声を落として言う。それと同時に君は手を握られて、その時初めて手が震えていたことに気づくだろう。
「どうして、あの子が……」
訊いても無駄だとわかっていても、目の前の優しい先輩に縋りたくなる。
「屋上には鞄があって、そこに大量の咳止め薬があったらしいわ。今の子って咳止めを沢山飲んで意識を変にしちゃうんでしょう? 睡眠薬もあったらしいわ。空になったシートが落ちていたって。きっと飲みすぎちゃったのよ」
その説明に納得することができず、視線を彷徨わせていると、エレベーターのランプが突然点灯し、1のランプがすぐに2に変わる。
扉が開くとそこから川上支配人と何名かの警官が見えた。支配人だけがエレベーターから降りて振り向き、エレベーター内に残った警官達に指で上を指し示していた。こちらを向いて群衆の隙間から君を認めると、大急ぎで何か声をあげながら行列の隙間に体を捻じ込むようにして近づいて来た。彼もまた青ざめた顔をして、乱れた髪に皺になったスーツ姿で君達に話しかけるだろう。
「片桐さん。こっちはいいから。礼田君……」
彼は君を見て言葉に詰まる。片桐は「鹿島さんだという事は話しましたから」と気をきかせて言う。
「そうか……、知らない方が良かったとは思うが……仕方がない」
チン、と下へ向かうエレベーターが開く音がする。扉が開くと行列のうち十人以上がその中に入り込もうとしている。
「いかん、片桐さん。お客様が押し合わないよう、エレベーターの前に行って整列させて」
支店長の指示に片桐は「はい」と返事をすると、人いきれを掻き分け列の先頭に向かった。一台目のエレベーターは大きな混乱なく閉まった後で、彼女が二台のエレベーターの間に立って、お客の列の方向に振り向き、乱れた行列を直し始めた。
「私がしばらくエレベーターを停止させていたんだ。一階もお客様でごった返していたからね。封印したというわけだ」
支配人は前方にいる片桐の方を見つめたまま呟くように言った。君はここに居ることに耐えきれず、次のエレベーターに乗ろうと、行列を無視して前へ行こうとする。
「どこへ行くつもりですか?」
彼は肩を掴んで尋ねる。
「一階です。鹿島さんが落ちたんですよ」
「もう救急車は行ってしまったよ」
「病院に行かないと。ここから出て……」
「礼田君!」
支配人の声は涙で濡れていた。彼はゆっくりと首を振る。
「心肺停止だと救急隊員は言っていたが、もう駄目だろう。君がここから出て行ったらもう帰って来られないよ」
「帰って来られないって、ここは一体どういう所なんですか?」
思わず大きな声を上げる。支配人は一瞬息を呑んだ。それから少しの間思案し、ゆっくりと話し出す。
「私にもよくはわからない。いつか言った通り、願いがあって、それを叶えたら出て行けるという人もいる。というより居る必要がなくなるのかもしれない」
ここまで言うと、彼は一旦口をつぐみ、エレベーター前の行列が少し減ったのを確認する。
「礼田君は外で生きていけないんだよ、きっと。そういう人たちのためにこの職場がある。君は出て行こうとしたけれど、出て行けなかったよね? おそらく君は護られているんだよ、この世界に」
「僕が……生きていけない?」
「そうだ。家もない、仕事も不安定で、きっと友人もおらず家族もいないか上手くいっていないだろう? それって、外の世界では君はいないのと同じなんだよ」
支配人はここまで話すと、辛そうな表情を浮かべた。君はその通りだと認める代わりに沈黙している。
「小さな願い……。それを見つけて叶えて、ここから出て行く。きっとそれは外で生きていける自信を取り戻す一歩なんだよ。これまでここに多くの人達がやって来て働いた。君と同じようにね」
彼はふと、君から目を逸らす。
「みんなここで自分の望む事を見つけて羽ばたいてゆく。ここは、そんな安全な巣のような役割を担っていると思う。いつか、礼田君も飛び立てるようになる」
君は、支配人の説明を自分の中で嚙み砕いてみたものの、鹿島を失った悲しみをどう扱っていいものかわからずに戸惑っている。
「じゃあ、どうして鹿島さんを出て行かせたんですか? こんなことになるなら……」
支配人は、鼻を啜って黙り込んだ。そして、長い沈黙の後、絞り出すように言う。
「そうだな、彼女の願いが何だったのかは知らないが、出て行って生きていける状態ではなかったのかもしれない。それを決めるのは私じゃないが……、止めることはできたかも……」
最後の言葉に、言い訳めいた響きを感じたのか、川上は下を向いて恥じ入るようにしている。それを見て君は言わなければならない事があると勇気を奮い立たせる。
「僕の……僕のせいなんです。彼女の願いは、僕に好かれること……だったようで。僕が迂闊に、それを知らずに……、出て行くとは思わずに……」
支配人は君の肩に手を置いて、震える声で言った。
「そうだとしても、君のせいではないよ。勿論誰のせいでもないよ。礼田君は強くなって、生きて行けるように頑張るんだよ」
君は支配人の悲痛な顔を見て、それから行列の前にいる片桐を見る。彼女は笑顔を作ってお客に頼み込むようにして、行列が乱れないように整えている。お客の数はエレベーターが到着する度に十人以上の単位で減ってゆき、彼女は満足そうに残り少なくなったお客を数えている。彼女にも、支配人にも、ここでしか生きてゆけない理由があるのだろうか? ふと尋ねたくなるが、すぐに瘦せこけた愛しい娘の顔が心を占拠し、目の奥深くから溢れる涙を抑えることに汲々となるだろう。
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