「耳で聴かない音楽会2019」はなんだったのか/何をもたらすのか
昨日8月20日、東京オペラシティにて開催された「耳で聴かない音楽会2019」に参加してきました。
1.昨日の体験は一体なんだったのか。
2.この音楽会は社会に影響を与えるのか、それとも昨日のあの場限りのものなのか。
を私なりに検討してみます。
1. なんだったのか
(1) 第一部での考え=「この映像はこの曲をきちんと変換できているのか?」
第一部では、『剣の舞』と『カノン』が映像付きで演奏されました。
『剣の舞』では、顔のついたカラフルな棒グラフのようなキャラクター達がどんどん増えたり伸びたりしていく勢いのある映像、
『カノン』では、横にずっと繋がった瓶のようなものが写し出され、一筋の光がそれを照らしている映像でした。
いずれの曲目の映像も楽しくて美しく、好きではあったのですが、
「何故顔が付いているのか、何故この楽器の音がピンクで表されるのか、何故音の高さの変化と棒グラフや瓶の高さの変化がぴったりと一致しないのか」などの疑問はありました。
つまり、私の頭の根底には、耳の聴こえる人が体感しているものを、そっくりそのまま耳の聴こえない人が理解できるようにしなければならないという考えがありましたし(なんだか偉そうな考え方だったと思います) 、 今回の音楽会はそのようなものだと理解していました。そのため、「この映像は、この曲の音をそのまま映像に変換できているとはいえないのではないか?」という疑問を感じていたのです。
(2) 第二部での考え=「新しいユニバーサルアートだった」
第二部の冒頭で映像を担当されている「WOW」の方が登壇された際、
「映像奏者」との紹介がなされました。
また、映像は、その場で演奏に合わせて流していると聞き、
ここで、私は「なるほど!」と思いました。
この音楽会での映像は、私が第一部までで考えていた「音楽を変換したもの」すなわち「音/映像」という関係性を持つもの ではなく、
「オーケストラの1パート」、すなわち「バイオリンの波、ビオラの波、チェロの波・・・フルートの波・・・映像の波」といった並列の関係性を作るものだということです。
以上から、私は今回の音楽会は、決して「音の聞こえない人が音の聴こえる人と同じ経験をできるようにするもの」ではなく、
「既存のオーケストラ楽曲を天才達が編曲し、新しいエンターテインメントを生み出し、それを全員が共有し楽しんだ場」であったと考えます。
現に、帰路の私には耳の聴こえない人にとってどのような体験であったのかを考える頭はなく、ジョン・ケージに虚を突かれた時の全身で感じた衝撃、サンドペーパーバレエを触覚で楽しんだ感覚、「身体が澄んだ」感覚でいっぱいでした。
2.何をもたらすのか
とにかく自分自身が楽しかった、とはいえ、私が「耳で聴かない音楽会」に参加した本来の目的は、「障害のある人も、障害の無い人と同じくらい、心が動かされ生きていく糧になるような機会を得られる社会」になるには、どうしたら良いのかを考えることでした。
そこで、今回の音楽会が上記のような社会の実現にどのように寄与するかを検討したいと思います。
(1) 聴覚障害を持つ人の中で、ライブ音楽を楽しむ人が増加?
(=聴覚障害のある人へのアプローチ)
今回の音楽会は、私にとっては、新しい感覚を得た衝撃の強いものでした。
同じような衝撃を感じた聴覚障害のある方がいたとすれば、コンサートやライブ、フェス等に行きたいという気持ちを生み、新たな楽しみに出会うきっかけになっている可能性があると考えます。
世の中には、耳が聞こえなくも音楽を楽しめるイベントが意外と沢山あると感じます。
例えば、私は先日「SUMMER SONIC」というフェスに参加したのですが、そこに出演されていた「AMAZARASHI」というアーティストのライブは、楽器の音や声で会場や観客の身体が震え、映像や光の演出もあり、一部ではありますが歌詞も映像に登場します。
おそらく、まだまだ音楽は耳の聴こえない人にとって楽しみづらいものではあると思います。そんな中でも、音が無くても自分が楽しめるライブ音楽を探し求め、新たな楽しみを開拓する原動力となり得る、というのが、昨日の音楽会の持つ影響力の一つであると考えます。
(2) ユニバーサルアートの分野を開拓?
(=アーティストへのアプローチ)
今回の音楽会は、
・新たな感覚を得られ、楽しく、衝撃の大きいものだった(私にとっては)
・映像表現には、議論の余地があった
(閉演後に他の観客の方のtwitterやnoteの投稿を拝見すると、私と同様、映像にひっかかりを感じた方もいたようでした)
以上のことを踏まえて、今後ユニバーサルなアートを生み出す人を増やすという影響力を持っている可能性があると考えます。
例えば、
・今回演奏された『動物の謝肉祭』の映像パートとは異なる、他の映像パートが付けられて演奏される
・他にも映像パートのある編曲がなされる曲が増えていく
・絵画に音を付け、絵を視覚障害のある人も楽しめる作品が生みだされる
などが起きるかもしれないと思います。
このようにして、障害の有無に関わらず楽しめるユニバーサルなアートが増えるとすれば、それは「障害のある人も、障害のない人と同じくらい、心が動かされ生きていく糧になるような機会」を増やすことであると考えます。
3.まとめ
色々頑張って解釈してみましたが、正直な気持ちは「すごかった」に集約されます。聴覚障害のある人の視点に立ったからこそ生まれた工夫、演出・演奏者の皆さんの楽しそうな様子を見て、私もいつかこんな企てができるようになりたいな思いました。他の人の想いを知る視点、結果を出せる力を持てるよう精進していきたいです。
とりとめのない文章になってしまいましたが、お読み下さりありがとうございました。