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12/19マーケット特別ゲスト 畑とつながるシェフ①クインディッチ 玉井徳裕シェフ

いずれ、おおいたOrganic Marketが外国のマルシェのように
レストランのシェフが買い出しに来て、大分もオーガニックが食卓とともにレストランでも日常になれば素敵!という夢があります。
畑とつながるシェフを特別ゲストでお迎えします。
大分の地産地消レストランのパイオニアの梯シェフとその元で学び続ける玉井シェフ、五十嵐シェフのご紹介です。

玉井徳裕シェフ クインディッチ
「シェフ、スタッフ、そして生産者までが店のチームです。
コロナでお客さんがいなくなって生産者への注文が減った。最後の最後でもう注文が全くできなくなった時に
自分がふがいなかった。情けなくて、本当に申し訳なかった。」

玉井さんは梯さんの会社に入社して、バールポンテのシェフを経て、大分OPAの4階にあるクインディッチのシェフをOPAのオープン当初から任されています。クインディッチの経営は小野酒店の小野さん。プロデュースを梯さんという形態のお店です。
 
開店して何か月か経った時にランチを頂いたのですが、鮎のかたちの最中に鮎のリエットがたっぷり入っていて
「レストランでなければ食べられない!」とその華やかさにドキドキしました。シェフの気合の入った料理。
友人と少しおしゃれして一緒に楽しめることがとても嬉しかった。
お話をお聞きしながらその記憶がよみがえって来ました。

玉井さんに、
・生産者との関わり方について思うこと
・自分の理想のレストランについて
・ボス 梯シェフについて思うこと
をお聞きしてみました。
でもどうして料理人になったのか、料理人の人生を歩む人に私自身の興味がありすぎてとんでもなく
長いインタビューになってしまいました。でも、子どもの時からの食べること作ることの関わり方や
コロナという前代未聞の状況への対応と見えてきたこと、情報発信の仕方や社会とつながるレストランの役割などをお聞きして、やっぱり玉井さんは新しい世代のシェフなんだと、これから先のおおいたはすごく楽しくなる!となんとも言えない希望をもらって帰りました。

【玉井シェフが出来るまで】
玉井さんは栃木県出身。
そもそもなぜ料理人になったのか。なんでも手作りする家庭環境とお母さまの影響が大きかったそうです。
「マドレーヌが食べたいと言ったら小麦粉とバターを買いに行くところから。働く母親だったので姉弟3人だけで料理することもあった。それが楽しかった。」もともと手作りの家系なのかおばあさんもお母さんもお姉さんも服飾の仕事。なんと玉井さんも洋服を作れるそうです。
心に残っているのは小学生ボーイスカウトの大会で久住高原でのキャンプに参加した時のこと。
料理当番の自分の料理が、キャンプでありながら盛り付けなどにも工夫したのでいろんな人に喜ばれた。
「人種や言葉が違っても料理は人を喜ばすことが出来る。」と思ったそうです。

 高校は進学校だったので99%の生徒が大学進学する中、迷いに迷って大学の二次試験の最中にやっぱり料理人になることを決めて回答をやめたとか。一年間調理師学校の費用をバイトで稼ぐため、引っ越し屋さんから
ケーキ屋さん、デパ地下のお惣菜調理など続けたそうです。
ケーキもとても好きでパティシエも考えましたが、そのケーキ屋さんのオーナーから「パティシエより料理人のほうがフランスという国の文化を総合的に知ることが出来る若いし、選択肢があるなら料理人へ。」とアドバイスをもらって辻調理師専門学校東京カレッジのフレンチ・イタリアンのコースで一年間学びました。
住み込みで働いて学校が休みの時は朝から食べ歩きして終電で帰る。
その時、ここが一番美味しい、というケーキ屋さんとパン屋さんの名前を教えて頂きました。
パンは「バケットがフランスの味だった。」
ケーキは「一つひとつの素材が調和しているけどそれぞれの味わいの輪郭もくっきりしていて軽やかで見た目もすごくきれい。」
辻調理師専門学校さんは私が大阪の会社勤務の時にとてもお世話になった得意先です。
「味の記憶がなければ、味はわからない、料理はできない。舌の経験をするように。」と食べ歩きを進め、
卒業生のネットワークを生かした就職先を確保し、住み込みでバイトしながら現場経験を積めるレストランの紹介もされていました。実際に現役で活躍するシェフで、その通りに学生生活を送った方の話は新鮮でした。
卒業してサービス部門も含めて数件のレストランで働いた後、非常に厳しく、でも本当は優しいシェフのもとでやっと本格的な修行が始まりました。よい修行先でまかない前菜とメインとデザート、ナイフとフォーク
がちゃんと添えられるような。
でも玉井さんはアルバイトも含めてサービスの現場が長く、厨房での訓練が出来ていなかったので
他のスタッフの調理の流れに乗れない、ワンテンポ遅れる。業を煮やしたシェフがどなって調理のバットを
玉井さんめがけて投げつけ、額から血を流しながら必死でやっていたことも。

厳しい修行の最中に、「東京にいてなぜフランス料理なのか どうしてフランス料理をしているのか
分からなくなった。」と迷ってしまったそうです。
そこで実際に1月フランスに行って旅行者でいいのか、それとも料理人でいたいのか体験して決めることにしました。「修行は途中で挫折してしまった。」そうですが、それでもフランスに行く前、帰国した際もシェフに会いに行き、結婚式もそのレストランであげたそうです。今も師匠との関係は続いています。

【フランスの暮らし】
一か月のうちにフランスの各地域の代表的な伝統料理 その地方ごとの料理を食べる。
それを目標として旅行者で気が済むのか、それとも料理人として生きていくのか決める旅が始まりました。
日本と違っていたことは、田舎の特産品が必ずあること。日本のスーパーは結構画一的だけどフランスはもっと個性的で土地柄が分かる品揃え。その土地のマルシェで買った野菜で作るラタトゥイユは味が鮮烈で日本のスーパーで材料をそろえて作るのとは全く違ったそうです。

フランスのマルシェは常設市場と週2日ひらく場所が地域ごとにあり、週末が多い。
パリは特に生産者のビオの有名人がいて星付きシェフがあっという間に買い物してなくなる。
その土地の人が誰もが知っている生産者の有名人・・・。すごいことです。
ちなみにマルシェで一番美味しかったのは洋ナシ。特に香りが最高。
一つしか買わなかったらもっと食べろと生産者のおじさんが何個かおまけしてくれたそうです。

宿泊は各国の人が集まるユースホステル。必ず自炊できるキッチン付きのユースをさがして宿泊。
学生も多く、玉井さんがちゃっちゃと料理していると料理が出来る人がいる!と評判になり作って
喜ばれ、数ユーロずつもらって路銀の足しになって助かったそうです。

その時少年時代のボーイスカウトと同じく、言葉も国も関係なく、料理で人を喜ばせることが出来たことから
やはり、料理人になることを決めて帰国。
再び、期限を決めて東京で働き、のちにフランスで丸3年仕事。
帰国して20席のビストロの新規オープンで采配をまかされたのですが食べログが流行りだした時期で激務。
大田区のマンションが並んで人口密度が高く在宅で独立事業主が多い地域。
道を挟んだほかの区とは全然客層が違う。立地の大切さを感じました。その後は
奥さんが大分出身、フランスで知り合ったシェフが大分出身。という縁もあり、奥さんの勧めで
2015年大分に移住。2016年から梯さんの会社で働くようになり、今に至ります。

【語学と修行先】
昨年、初めてミシュランの三ツ星を日本人シェフがフランスで獲得したというニュースがあり
実際にフランスで修行するシェフはどんなものなのか、特に語学の習得と修行先はどうやって見つけるのか
個人的に興味があったのでやや脱線して聞いてみました。

語学は、最初の1か月の旅の最中に2週間、シチュエーションに合わせて英語、フランス語、日本語解説のパンフレットを読み混んで練習して次の日マルシェやレストランで使ってみる。ということを繰り返していたら
いつの間にか電話で予約できるまでになっていたそうです。
「人間、追い込まれたらどうにでもなります。」

修行先の見つけ方は、イメージは飛込かな、と思っていたのですが今時はメールでちゃんとコンタクト。
それに日本人が働いているレストランはフランスにごまんとあって、その先輩たちの紹介で働き口は見つけやすいんだそうです。ちなみに日本人は魚の扱いにたけているイメージがあるらしく、最初は大抵、魚担当になるとか。玉井さんの場合は、新進気鋭の日本人シェフとして冊子「専門料理」(大好き!いい冊子)で紹介されていた人が独立してスタッフを探していることをたまたまその当時ミクシィで知って申し込んでフランスでの修行が
始まりました。

昨年、三ツ星を獲得したシェフが
「自分が獲得できたのは、惜しみなく料理の知識や技術を教えてくれたフランス人と、日本人は仕事が出来るという信頼を積み重ねてくれた無数の先輩たちのおかげ」というようなコメントをそれこそ専門料理の冊子の記事で読んで感動しました。
日本人のフレンチレストランはフランスでも評価が高いそうですが、同じアジア系で中国や韓国のシェフのフレンチはどうなのかと聞いてみたら、その国ごとのアイデンティティを生かして薬膳やスパイスなどを組み合わせて作るフレンチがその文化の融合や工夫でさらに洗練されていて高い評価を受けているそうです。
すごく面白いことが世界中で起こっているのだと想像できました。

【コロナでの試行錯誤】
大分OPAの一階の魚屋さんが撤退したあとの調理ブースで梯さん、五十嵐さん、玉井さんが交代で料理をする姿がありました。梯さんへシェフをそんなところで料理させるな、気の毒じゃないか。という意見もあったそうです。きっとそのお客さまもシェフを大事に思っているからこそそんな風に思われたのだと思います。

でも私はOPAの前を通りかかって皆さんの姿を見かけるたびに、プロの料理人でその矜持があるからこそ、
できるのだ。本当の料理人なのだと感じていました。
玉井さんも「どんな場所で料理しようと関係ない。お弁当やお惣菜を作って販売すれば生産者の皆さんのものが仕入れられる。自分に今出来ることをその時その場で責任を果たしていくのは当然。生産者の気持ちを汲みながら料理していました。」と言われていました。
レストランが出来なくなった時はテイクアウトのお弁当。
取引が出来なくなった農産物や海産物の売り場を設置して、お惣菜も作って、生産者を呼んでのイベントも開催して、食材の魅力をお客様に伝える。
ありとあらゆる手立てを経営者の小野さんはじめ、シェフの皆さんがその対策をスピード感をもって
試行錯誤をやっているのを感じていた方は多かったと思います。
自分たちの店だけではなく、周辺の飲食店にも呼びかけて、全体を考えて支えようとする。
こんなこと誰にでも出来るわけではありません。

まだまだレストランが以前のような経営になるのは難しいのですが、テイクアウトに挑戦することに
よって様々は効果もあったそうです。
お弁当と総菜で出来るだけ生産者のものを使うことが出来たこと。
OPAの4階にこんなお店があったの、とお弁当が発信材料になって新規のお客さんが増えたこと。
いろいろなことに気が付いた期間だったそうです。
常連のお客様が夜一人1万円のコースで人数を集めて開催してくれることも。
「お客さんがかわいがってくれて自分をすごくフォローしてくれた。期待し続けてくれている。
その期待に応えていつか恩返ししたい。」


【料理人に出来ること 社会的役割】
私は料理関係の専門書や業界誌、新しく出版されるレシピ本などが面白くてよく読みますが、
持続可能社会の実現目標である国連の掲げるSDGsを意識して社会的な役割をその地域で果たしていく、という理念を持ってレストランを経営する料理人が当たり前という時代になってきたのがわかります。
玉井さんも大分に移住して梯さんと一緒に仕事をしてそのような仕事を果たしてきました。
「大分は人口が少ない分、料理人が社会的役割を担うし、その責任が大きいと思いました。」
例えば、生産者が新事業で設備投資のために銀行の融資を申し込む場合があります。
融資の判断材料にその農産品の試作を依頼されたり、ある食材を食ラボで取り上げて早く知ってもらうということもあるそうです。玉井さんはただいま食ラボの会長。自分のレストランだけではない仕事も多く抱えています。

「生産者の、生産現場のストーリーを伝えるだけではない。実際の問題解決に当たりたい。
レストランは人が集う場所であり、人が繋がる場所。
様々な技術や資金をもっている人が料理を通じて社会的な問題に気がついて実際にアクションを起こす
きっかけになったらそれも役に立つことだと感じる。
料理人は世の中の問題を解決するときの橋渡しとしての役割も果たせると思う。
レストランも料理人も社会に属して生きていくことが大事。政治的な解決の糸口にもなる。」
レストランでの出会いが発展して行って仕事や問題が解決していく経験をするなんて素敵だと思いました。
また、レストランに出来ることの可能性はもっと大きいのではないかと思います。

地域で経済を循環させていくことについても、レストラン一軒だけでは存在できないと、
つながりを意識するようになりました。
「栃木にいたときから、よく畑や畜産の生産現場で一緒に腐葉土を作りながら話して
学ぶことが好きだった。自給自足の生活に今でもあこがれる。
でも今は畑のプロにちゃんとしたお金を払って地元で経済を回していくことが大事だと考えるようになりました。自分の畑ではハーブとか花とか日持ちしないものを少し育てるくらいでいいかな、と。
地域にお金が循環していくことが健全です。」

【野菜の選びかた】
プロの玉井さんが同のように食材を選ぶのかもお聞きしました。
例えば直売所。
「道の駅で実際にその生産者にあったことないけど選ぶ人は決まっています。何度が買ってみて品質の
良さがどんな種類の野菜でもぶれないな、と思ったら名前で買います。
沢山同じ種類のほうれん草があったとしてもその人の野菜を選んで買う。ほうれん草なら姿かたち 他の野菜も安定しているから。いつか直接会って取引出来るようになりたいと思うし、野菜の姿から畑の様子まで想像しています。」
畑はきちんと手入れされていて綺麗なんだろう、だから安定して品質の高い野菜の様子が作れるのだと。
代表作物がある農園も魅力的です。。
「この野菜ならこの人1シーズン力をいれてそれに専念している人の農産物も分かりやすくてお客様に
説明しやすくて使い易いです。」

【畑や海 生産現場にいくことの意味】
東京の激務のレストランでは仕入れの時間も取れなかったため、
野菜の情報は八百屋さんからしか入らない。週一で生産者からお任せボックスが届く。
築地になるべく通うようにしてたけど畑の様子がわからない。そんな過ごし方で困ったそうです。

魚も海にいかないと景色がわからない。浜辺にどんな花が咲いていて海の色や風。
でも畑にいると料理のアイデアが浮かんでくる。

一皿を食材を切って調理して出すだけでは足りない。
その現場の風景も切り取りたい。印象のある一皿にして伝えたい。

例えば、と山と海の絵を描いてくれたのですが、
「山の手入れをしないと栄養のある伏流水が海に流れない。山の間伐材の処理の仕方や海を守る方法。
そんな今の自然の様子も表現出来て、その一皿からいろんな知恵が集まったらいいと思います。」
そういう発想にすごく驚きました。

畑に出る時間確保のためには他の作業の効率化も必要です。
レストランでの経理の部分などは効率よくAIに任せてみたいと言われていました。

【レストランの運営の工夫】
これからのレストランの業態についても聞きました。
「シェフが部門ごとにいて、スタッフも多くいてというような大きな規模で維持するのはこれからは難しい
 と思います。小さい規模の店舗のほうが小回りが利く。但し大量仕入れは難しい。先が読めないので本当に
 全てがチャレンジというもの今後とも続くと思います。」
それに情報発信の在り方も大切で料理人が厨房にこもっているのではなく、積極的に発信する時代。
SNSもFBとインスタグラムの情報の受け手の年代が違う分、どの年代も取りこぼさないようにお店の顧客の層がある年代で向け落ちることがないように使い分けています。
世界中の人が見てくれるように玉井さんのInstagramはフランス語です。
生産者も発信の仕方が上手なところは注文が全国区になる。沢山のコンタクトでつながっていく手ごたえを感じています。
席数の多い店をまかされてどうだったのでしょうか。
クインディッチ40席。20席の経験から2倍の席を確実に回せるような経験を積んでほしいとの願いで
梯さんからこの店舗を任されました。
責任者になってみて思うことは、自分ひとりだけの能力が抜きんでていたらいいという話ではない。
スタッフも含めて全体のレベルアップを図らないと自分の理想は実現できない。ということだったそうです。

【梯さんについて】 
奥様が大分出身で、フランスで知り合ったシェフも大分出身で食ラボの活動でよこのつながりや生産者の仕入れ先も教えてもらった。大分に来て一年で梯さんのお店に誘いを受けてバールポンテのシェフに。
「始めて梯さんの鉄輪のレストランに足を踏み入れた時に限りなく自分の理想に近いと思って声がかかったことがとても嬉しかった。あの凛とした空間。ガストロノミーの地産地消の実現そのものです。」

【玉井さんのこれから】
今のスケジュールはなかなかハードです。
お弁当40食総菜40食ほどを作り、特別注文のテイクアウトがあればそれもランチに間に合うように全部完成させます。ランチが終わったら明日の仕込み。その後は試作や販売のPOPSなどを考えたりで閉館ギリギリまで残る事も。仕入れのヒマもないくらいです。
ずっとスポーツをしていたので基礎体力はあるほうですが立ち仕事で腰を痛めるので
筋肉を落とさないように気を付けています。半年に一回くらい断食してリセットする習慣もついたそうです。
でも働き方の改革が業界にも必要だと工夫しながら考えています。

ポンテにいた玉井さんが作ったスナップエンドウのムースはとても美味しく、綺麗で思い出に残る一品でした。
でも正直なところ、その時の玉井さんはすごく雰囲気が怖かった。野心があって自分にダメ出ししているような
ピリピリ感がありましたが、今は違う。

落ち着いて穏やかな優しい気配に満ちています。
白髪が増えた気がするけど、仕入れが出来なくて生産者に申し訳ないというような
今の玉井さんの料理を改めて味わってみたいと思いました。
クインディッチが開店したころに伺った料理とはまた違う味になっていると思います。

玉井さんは人から紹介してもらって。という言葉を何度も聞かれました。
運がいいだけです。と言われていましたが真面目で誠実な人柄が愛されてきた証拠だと思います。
仕事が遅くてバットを投げつけられて流血したまま仕込みした。という修行時代の挫折も包み隠さず
言えるところが玉井さんの正直で飾らない魅力だなあと思います。

頑張り続けることは誰にとっても難しいけれど、玉井さんを大事にしているお客さんが
その気持ちを育て続けていると思います。それこそが町に暮らす町衆の役割であり、町の文化です。

なぜ料理人になったのか。
「人の役にたって喜んでもらえる仕事っていいな、と思った。」
腕自慢でもなんでもない、作り手のシンプルな喜び。
その喜びを受け取る人はこれからももっともっと増えると思います。


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