おいしい流域 第5回 -なまず:神奈川県登戸 なまずが教えてくれる多摩川の今- 【開催レポート】
山から海までのつながりを食を通じて体験する「おいしい流域」イベントの第5回目を、神奈川県登戸 二ヶ領せせらぎ館にて10月1日(火)に開催しました。
これまで4回の講義を通して、水の循環システムの仕組み、山が水に与える影響、川魚の生態系や木の山に対する影響、多摩川流域の住宅化・工業化に伴う生態系の変化、のりと経済の密接な関係を学びました。第5回となる今回は、江戸時代から現代までの多摩川での暮らしと川魚食文化について学びを深めていきます。
この記事では、「おいしい流域」第5回目の様子をお届けします!
講師
多摩川領域をたどり、二ヶ領用水の歴史を知る
本日の学びの場は、神奈川県登戸にある二ヶ領せせらぎ館。参加者が集合して自己紹介を終え、まずは多摩川流域を河口から遡っていくドローンで撮影された映像を鑑賞。今までの全4回で訪れた土地や、所々にある領、支流地点を見ながら下流域・中流域・上流域を辿って水の水源奥多摩湖へ。
そして最後には多摩川の山の水源である笠取山まで138km。
流域によって川の幅はもちろん、流れ方、水の色も変わっていく様をみて、こんな風に様々な地域を流れ、海まで辿り着いているのだと、いつもは点でしか見ていない川の全体図を見ることができました。
一粒の雨が山に降り注ぎ、川になって、海につながる。
まさにおいしい流域で伝えたいことがぎゅっと詰まった映像でした。
二ヶ領用水の歴史とその影響
続いては、二ヶ領用水の歴史を学びます。
ビデオをみながらどうしてこの場所に堰を作る必要があったのか紐解いていきます。
多摩川は当時”暴れ川”と言われるほど流れも早く、大雨の度に川の場所が変わり、その度に田畑・民家・流通に被害を与えていました。
そこで、どうにかできないかと、1597年から二ヶ領用水づくりがスタート。
当時は蛇籠を川に敷き詰め、水面をあげ、元の水面より高い土地に水を流す工夫をしました。そして二ヶ領用水ができたことによって平地に水路ができ、2000ha・60カ村の土地を潤すことができるようになったのだそう。
完成までには14年もの歳月がかかったと言われています。
二ヶ領用水が完成し、農民の生活は潤いましたが、日照りが強く水不足になってしまうと、お米を年貢として納める農民たちは水をめぐって争いが多発しました。そこで、水を平等に分配するために、下流の農村にまで公平に水を届けるための様々な工夫がなされました。
川崎市に今でも残る円筒分水は、水の力だけを利用して水を平等に分配する仕組みで、その工夫のひとつ。1998年には登録有形文化財に指定されました。
明治時代後期になると工業化がどんどんと進み、農地は減り、農業用水・生活用水として活用されていた水は、工業用水や年々増える人口増加のため生活用水としての活用がメインとなっていきました。
その当時汚れた水はそのまま川に流され、川はどんどん汚れ、川の周辺の多様性はなくなり、多摩川は”死の川”と呼ばれるほどに。
その後下水処理を徹底し、今では綺麗さを誇れる川へと改善されたそうです。
多摩川の力強さと歴史の息吹
お話を伺ったあとは、二ヶ領せせらぎ館に住民票をもつ、たまずん(なまず)と対面し、実際に堰や、多摩川と二ヶ領用水の分岐点を見に目の前の多摩川へ。
多摩川に到着すると、風が強く、たくさんの鳥たちにも出会いました。
実際に堰に近づいてみると、前後の川の高低差はとても高く、川の流れもとても速いことがわかります。特に堰の部分の水力はとても激しく、大声で話さないと聞こえないほど。堰の脇には、あゆや鮭などの魚が上流するための道も確保されています。この流れが速く、広い川幅に昔は蛇籠をおいて堰を作っていたなんてとても信じられないくらいです。そこまでしてでも、水害の予防や水を平等に分配することで人々の暮らしを豊かにしようとしていたんですね。
多摩川沿いの散策と自然の発見
次は多摩川沿いを散策しながらお昼ごはんの場所へ移動。池のように見えるが下は川と繋がっているワンドや渡し船の発着所があった場所などを、多藝さんに案内していただきました。子供達はワンドや草むらに興味津々。寄り道とたくさんの学びの探検を終えて、いよいよ日本料理屋 柏屋さんに到着です。
日本料理 柏屋さんでお食事
日本料理 柏屋さんにて、小出社長と江戸料理研究家 うすいさんからお話をききながら、川魚料理をいただきます。
日本料理 柏屋さんは1830年(天保元年)より続く、老舗の川魚をメインに季節のお料理が楽しめる料亭。お食事の前に、小出社長より川魚を料理として提供することへのこだわりを伺いました。一つに川魚といっても、水面近くと底面を泳ぐ魚では処理の仕方が異なるそう。底面に生息する鯉やなまずはにおいや臭みが強く、その最たるものがなまずなのだとか。処理や調理方法を工夫しなければ美味しく食べられるようにはなりません。収穫したあとは泥を吐かせるためにいけすに泳がせ、丁寧に下処理をした後、ごぼう・しょうが・みそ・醤油などで煮ていくのだそう。これは昔から続く変わらぬ、川魚をおいしく食べる大切な工程。それを現代の方にも食べやすく、喜んでもらえるようにと柏屋さんが常に創意工夫と重ねたお料理をご用意いただきました。本日は鯉のあらい、なまずの唐揚げと川魚をメインに季節を感じるお料理をいただきます。
鯉と日本の食文化の変遷
鯉のあらいは、程よい弾力があり、梅酢や酢味噌で食べると甘みも増してとても美味しい。骨が多く下処理が大変だという鯉。今ではおめでたい魚と言えば鯛というイメージですが、江戸の中期までは鯉が一番めでたく、高級な魚だったそうです。
というのも、鯉が一番強くて、生命力があり、日本各地にいたので、おめでたい席では必ず鯉が食べられており、5月の節句に鯉のぼりを飾るのもこのことが由来なのだとか。ではいつから、食卓でみる機会が減っていったのでしょうか。それは、海の魚と出会ってしまったことが理由とのこと。大変な下処理をしなくてもいい美味しい魚が、流通や冷蔵システムが発展した昭和ごろには全国的に食べられるようになり、鯉・川魚を食べる機会は減っていったのだと言われています。
江戸時代の食文化とともに生きるなまず
次は、なまずの唐揚げが登場しました。初めて食べる方が多かったのですが、身は柔らかく弾力もあり、ふわふわ・ジューシー。ごぼう・しょうがのソースとも相性抜群で、大好評。
なまずは江戸時代は主にかまぼこの原料として利用されていました。そんななまずも、1750年までは関東にはいない魚で、ある時大洪水が起こり関西から関東までやってきました。それほど強く、たくましい魚なのです。
白身でさっぱりとして食べやすく、江戸時代はどじょうよりもよく食べられていたなまず。江戸時代は一般家庭では野菜以外を切ることができなかったので、魚屋が捌いたものがミールキットのようになって、最後火にかけるだけで完成する状態で家の前で販売されていたのだとか。
当時は1m以下の大きさのものはないくらい大きな魚でもあったので、近隣の住民で分け合って食べていたようです。
アジア圏でなまずが食べられていることは知っていましたが、アメリカテキサスあたりでも食べられていると参加者の方が教えてくださり、色々な土地で楽しまれていることも知ることができました。
子供たちはごはんが終わると、先ほど散策して見つけたワンドで遊びたい!とわくわく。大人は見つけられていない遊べるスポットまですでに調査済みだったようで、最後まで多摩川を満喫してくれていました。
最後に
今回の講義では、多摩川や堰の歴史、貴重なタンパク源として多摩川流域で獲られていたなまずや川魚を実食しながら当時の人々の暮らしを学びました。
次回は最終回。すずきの水揚げ量日本一の船橋で、今の海の生態系や干潟の役割について学びを深めるていきたいと思います。
最後までお読みくださりありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?