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森と海の関係を科学する(前編)  〜フィールド研山下洋さんに話を聞いて〜

京都大学フィールド科学教育研究センター海洋生態系部門 海洋生物環境学分野 特任教授 山下洋さんのインタビュー記事の前編です。後編はこちら


本当に森は海の恋人なのか

森の栄養というのは非常に難しいテーマです。明治時代から日本には魚つき保安林という、魚を保全するためにこの森は切ってはいけませんと法律で規定された森があるんですね。おそらくこの魚つき保安林の制定よりずっと前から、海辺の近くに森があると魚が集まるみたいな経験や認識があったはずです。ですので、森と海の間には何らかのプラスの関係があるということを、昔から日本人は現象として理解していたんだろうと思います。

檜原村にある滝のひとつ

富山ではブリが有名ですけれども、富山の漁師さんたちは「ブナの木1本、ブリ1000本」と言って、上流の森に生えているブナの木を守ることが富山湾での豊漁に繋がるということを、彼らは感覚の中で、経験値のようなかたちで理解をしていたようです。あるいは、気仙沼ではカキ漁師の畠山重篤さんという方が「森は海の恋人」というキャッチフレーズで、漁師さんたちによる森づくり運動を始められて、それが全国的な市民運動にまで広がっています。

このように、森と海の関係というのは、日本人にとって受け入れやすい考え方なんです。一方、アメリカやヨーロッパになると、砂漠や平原が続いて森がなかったり、川が数千kmもあったり巨大すぎて、森と海の関係を直感的に理解しにくい。日本という海に囲まれた森の国では、森と海の間が非常に狭くて、その間に人が暮らしている。だから、森と海の関係というのは日本的な考え方と言えます。

ところが、森と海の関係を解き明かすサイエンスというのが実はほとんどありません。一番わかりやすいロジックは、森にはいっぱい木があって、その葉が落ちて腐って、それが栄養分になって川に入って海に出てくるだろう。だからきっと「森の豊かな栄養が豊かな海を育む」んだろうということになりますが、これは科学的には根拠の薄い想像に近いものなんです。だけど、すごくわかりやすい、受け入れられやすいストーリーですね。この考え方に根拠を与えそうな研究がないわけではない。その一つが鉄です。

森から出てくる栄養について

水の中、川や海で一番最初に生物生産するのは、植物プランクトンです。水中の植物プランクトンの他に、川や海の底には石や泥の上に張り付いて生きている底生微細藻という微小な植物もいて、これらが光合成をして最初の生物生産を行います。陸上でも同じですが、光合成をする植物がいなければ、草食動物や肉食動物、私たち人間の餌がなくなるわけです。だから、これを基礎生産といいます。

そして、光合成で基礎生産をする植物プランクトンなどが成長するには水の中の溶存鉄が必要なんです。鉄分は人間にとっても重要ですが、植物も人間もトンカチのような鉄は食べられません。森では、土壌にたまった葉っぱをバクテリアが食べる(腐る)過程で酸素を消費します。すると嫌気状態と言って、酸素がない状態になります。酸素がなくなると、鉄は還元されて二価鉄(イオン)という状態になる。森の腐食土の中には、植物が利用できるイオン化した鉄が存在するんですね。ただし、鉄イオンは水の中に溶け出すとすぐに酸素によって酸化されて酸化物になり、植物は利用できなくなります。ところが、森の腐植土の中ではその鉄イオンをやはり腐植土の中で生成された有機酸が周りを囲んでくれるんです(キレートという)。主にフルボ酸という有機酸なんですが、有機酸が鉄を囲むとちょっと酸素に触れたぐらいでは酸化されなくなる。森で作られた鉄イオンがフルボ酸鉄の形で森から川に流れ出て、それが海の植物プランクトンに使われているのではないか、という説があります。

京都大学フィールド科学教育研究センター「森里海連環学入門」
https://fserc.kyoto-u.ac.jp/wp/cohho_study

森から鉄がフルボ酸鉄という形でたくさん流れ出て、それが海で植物プランクトンに使われて海の生物生産をサポートしているというのが「豊かな森の栄養が豊かな海を育む」ということの科学的な根拠の一つになっています。しかし、実は鉄の研究はものすごく難しくて、この説はまだ科学的には証明されていません。むしろ否定するデータの方が多いんですね。かといって完全には否定できない。

もうちょっとだけ深い話をすると、例えば庭のプランターの植物に肥料をやるときに、窒素、リン、カリウムが3大栄養素と言われています。3大栄養素の中で、カリウムは川にも海にも十分量にあるので考えなくてもいい。大切なのは窒素とリンです。植物プランクトンは一定の割合で窒素、リン、鉄(16:1:0.005)などを摂取するんですが、そのとき相対的に足りない栄養が最も必要な栄養になります。ところが、実は沿岸域では鉄は相対的に豊富で、むしろ窒素が足りないことが多いと言われています。また川では通常リンが不足することが多いようです。

だから極端な表現をすると、沿岸で鉄イオンを海に放り込んでも植物プランクトンは増えない可能性が考えられます。なぜかというと既に十分あるから。一方で、窒素を海に放り込むと植物プランクトンが増える。なぜかと言うと窒素が一番足りないから。実際にそういう実験も行われていて、その結果は沿岸域で「鉄が足りない」ことを証明できていません。それが森のフルボ酸鉄説を否定する理由の一つですが、これも場所や季節によって結果が全然違ってくるので、全ての場所に当てはまるわけではない。ですから、沿岸域での鉄の役割の研究は大変難しいのです。

黒い猫と白い猫のジレンマ

窒素とリンの話をします。森の栄養に期待する人々は、森の中で木の枝葉が落ちたり動物の死骸が腐ったりして分解され、森から大量の窒素とリンが川に入り海に流れていくだろうと考えているわけです。ところがそうはいかないんですね。それはなぜかというと、森の草木は生きており、成長せねばなりません。森林自体の成長に必要な窒素やリンが不足しており、森はこれらの栄養を森の外に出さないシステムを持っているんです。だから海の生物に分けてあげられるほど、窒素もリンも森は豊富に持っているわけではありません。森の栄養の大半は森の中で循環し、漏れ出た少量の栄養で海の生産を支えることはできません。これは科学的にもある程度証明されています。

むしろ窒素とリンについては、森林よりも圧倒的に農地と都市から出てきています。農地には窒素やリンなどを含む肥料が大量にまかれ、余った栄養が川に流れこむ。それから人間活動。例えば、食品廃棄物や糞尿は窒素とリンに分解されます。シャンプーなんかも窒素とリンを多く含みます。だから都市からも大量に窒素、リンが出てくるんですね。

すなわち、海を育てる森の栄養というのが実はあんまりないんです。例えば、ある川の流域を細かく区切って、各小流域から出てくる栄養分を調べると、森からはあまり出てなくて都市と畑からたくさん栄養が出ているという論文はいくつかあります。一方、豊かな森の栄養が豊かな海を育むという説を証明するような論文はみあたりません。

ちょっとややこしい話になりますが、森林には窒素飽和と呼ばれている現象があります。健全な森は窒素を外に出しませんが、人間活動によって窒素飽和してしまった病気の森は窒素を系外に出します。工場の排煙や自動車の排気ガスにはNOx(窒素酸化物)やSOx(硫黄酸化物)が大量に含まれています。中国や日本の大都市で生産されたNOxやSOxが偏西風に乗って西から大量に飛んできます。その風が山や森に当たって大気性の窒素酸化物が降り注ぎます。当たる場所、例えば山を1つ見ても、山の西側に窒素濃度が高く東側に低いみたいなことが起きています。そのような山には大量の窒素が降るので、森林では窒素が飽和状態にあり、余った窒素が森から川にたくさん出ています。ところが、私達が調査を行ったいくつかの河川では、窒素飽和した森から窒素がたくさん流れ出ている川では、生物生産力が高いんです。そういう川には餌となる小型生物も多く、ウナギやスズキがたくさん生息していて成長もよい。

<森林生態系における窒素循環と窒素飽和について>
京都大学フィールド科学教育研究センター「森里海連環学入門」
https://fserc.kyoto-u.ac.jp/wp/cohho_study

実はこれは複雑なジレンマです。むかし鄧小平が「黒い猫でも白い猫でも鼠を捕るのが良い猫だ」と言いましたが、水産生物の研究者として多くの魚を生産できるのであればよいのではないかと考えがちです。でも、森の人たちの立場から言うと、NOxもSOxも酸性で、酸性雨の原因となります。森の植物は基本的に酸性に弱いんです。ですから、窒素飽和した森では土壌や渓流水のpHが低くて酸性化しているので、森の研究者は森が病的な状態にあると言います。海に流れ込む栄養に、よい栄養と悪い栄養があるかもしれないなんて、複雑でしょう?私が所属する京都大学フィールド科学教育研究センターでは、渓流水の窒素の量を測定して山の健康診断を行ってます(https://fserc.kyoto-u.ac.jp/wp/yamaken/whatmhc/)。


(後編に続く↓)


全6回のイベント「おいしい流域」の企画を進めていく中でたくさんの問いに出会いました。その問いを深めるべく、”山、川、海のつながり”について様々な方にインタビューをしております。
※本プログラムは、日本財団 海と日本PROJECTの一環として開催されました。

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