ゾウに触れる、輪郭が溶ける
スリン象祭りに運営側として携わっている間に、調査先のゾウが倒れた。
博論執筆に向けた長期のフィールドワークを開始して、もう一年以上が経つ。その間に得た経験から言えば、自分の体重を支えることが出来なくなったゾウに残された時間は長くない。
だが、あれから約三週間。彼女はまだ生きている。いま私の目の前で息をしている。
それでも、日に日に死前臭が強くなっていく。内臓が徐々に機能しなくなりつつあるのだ。
身体の表面に出来た傷には、蠅がたかり、蛆虫が湧いている。それを、可能な限り生理食塩水で洗い流し、薬液で消毒をする。蠅が来ないように蚊帳を張り、蚊取りラケットで退治する。
ここは、スマホの電波もほぼ届かない、村の喧騒から離れた森の中。
普段は鳥の囀りしか聞こえないこの場所に、ラケットが蠅を捕らえる音が鳴り響く。
バチッ、バチッ。
バチバチバチバチバチ。
その音は、拳銃や機関銃の銃声を彷彿とさせる。
「まるで戦場にいるみたい」
傷の処置を行いながら、スタッフがふとそう漏らした。
そう、ここはある種の戦場なのかもしれない。彼女の生をめぐる、多種間の攻防。
もう12月だというのに、東北タイの日差しは強く、例年よりも日中の気温が高いように感じる。そのせいか、多くの蠅がどこからともなくやってくる。蠅が彼女の傷に産み落とした卵は、やがて孵化して蛆虫となり、彼女の腐った肉を食糧として育っていく。
私はこの現象にひどく戸惑っている。彼女の死にゆく身体は、新たな生命を育む土壌となっている。一方で、その新たな生命は、彼女の骨に達する程に肉を喰い漁り、苦痛を与え、命を削る。
生きることは、生の奪い合いだ。
私たち「人間」だってそうだろう。菜食の人であっても、肉も食べる雑食の人でも、サプリしか飲まない人でさえも、生きていた何者かの生を奪って取り込むことでしか生きることが出来ない。
そうやって誰かの生は、奪って、奪われて、種に関係なく次の世代を生きるものへと受け継がれていく。
彼女はもう立ち上がることが出来ない。奇跡なんて起こりようがないほど状況は絶望的だ。
それでも私は彼女の側にいる。彼女の名前を呼んで、彼女に触れる。彼女が私に触れる。
触れていると、たまにどちらがどちらに触れていたのかがわからなくなり、私と彼女の輪郭のようなものが曖昧になる瞬間がある。
彼女に熱があるかどうかを確かめるために、首筋に触れる。彼女に熱があると判断するのは最初の一瞬で、そのまま触れていると熱があるのは彼女なのか、私なのかわからなくなる。
彼女が私に鼻を伸ばしてくるので、手で握り返す。触れた部分を通じて彼女の呼吸が私の呼吸と重なり、息苦しさを感じる。私は苦しさのあまり、彼女から離れると深呼吸をして、自分の輪郭を取り戻す。
そんなことを繰り返していたら、私は本当に体調を崩して、熱と、息苦しさと、鼻水で二日間ダウンした。その間、ずっと彼女の体温が、匂いが、呼吸が、耳を動かすリズムが私の中にあった。
聞き取りをしていると、多くのゾウ使いたちからこんな話を打ち明けられる。
「なんでかわかんないんだけど、ゾウが体調不良になると、自分まで体調不良になっちゃうんだ」
それは、例えばゾウが腹痛になると、自分まで腹痛になって、下痢が止まらないとか、便秘が治らないとか、そんな話しだ。
ゾウ使いではない人たちは、ゾウのことが心配で眠れないから体調不良になるのだろうと言う。
でも、もしかしたら、そこで起きているのは、触れた部分が融解して、ゾウとゾウ使いの輪郭が曖昧になって、そこから相手の何かが自分に流れ込んできてしまうような現象なのかもしれない。
私に流れ込んでくる彼女の何か。
その彼女の何かは、いま私の中に(も)ある。
彼女が私に訴えるよりも前に、その何かは私を突き動かす。
そうしているうちに輪郭がどんどん曖昧になっていく。だから、何度も何度も輪郭を引き直す。
そうすることで、私は今日も彼女と生きている。