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映像作品『マルガーシ』から明日へ続く道

2024年11月のことになるが、私が勝手に「同志」認定している園木豪流さんの映像作品『マルガーシ』の上映会に参加してきた。その備忘録をここに記したい。



1. 『マルガーシ』概要

『マルガーシ』は園木さんが、勤めている会社でインターンをしていたモンゴル人の紹介で出会った遊牧民の家庭に約一ヶ月滞在し、撮影した「観察型ドキュメンタリー」だ。

とある遊牧民の一家と生活をともにさせてもらったひと夏を記録した観察型ドキュメンタリー「マルガーシ」
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生きていれば避けることのできない他者・多種との関わり。
都会ではどこか線引されがちで、希薄に感じてしまうその関係を問い直し続けた先に、
私たちは、ふとモンゴルの遊牧民の家庭へ辿り着く。

馬とヤク、羊や山羊...
長い年月を人間と共に生きてきた動物たちとの交わり。
日の出とともに起き出し、日の入りと共に眠る。
シンプルに、繊細に、丁寧に。
紡がれ受け継がれてきた人間の素朴な営み。

彼らの息遣いを聞きながら、気がつけば「今日という日を生きること」に思いを馳せている。

草原に佇んだ私たちは、
「生命」と「人間」という概念に出会い直す。
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モンゴル遊牧民社会ドキュメンタリー「マルガーシ」上映会イベントページ

この作品は、モンゴルの遊牧民の暮らしに焦点を当て、家畜の放牧、健康管理、去勢、屠殺、解体などのシーンとともに、子どもたちを通して家族の生活が映し出している。ドキュメンタリーということで、約75分の本編では、常に何かが起きている。

園木さんは、制作後記で『マルガーシ』を「ホームビデオ」とも称している。

この映像は「記録する価値がある」という前提に則り、文化人類学で言うところの参与観察や、上記に述べる観察映画のスタイルをリスペクトしつつ、人生にすばらしい光を与えてくれた遊牧民の一家へ送る感謝のホームビデオでもあります。

明日へのことば(観察型ドキュメンタリー「マルガーシ」制作後記)

私は、あと三回くらい観たい映像だと思った。ご本人には、「園木さんの関係がそのまま見えるのが良い」ということと、「バンドのメジャーデビュー後初アルバムのような良さ」があることをお伝えした。それをもう少し言語化しながら、『マルガーシ』の魅力について考えてみたい。

2. 資本主義の周縁で暮らすモンゴル遊牧民

『マルガーシ』で印象的なのは、自然の中で遊牧生活を続ける人々の様子だ。私たち日本人とは異なる、多くの家畜とともに移動しながらゲルで暮らすモンゴル遊牧民の姿は、「自然の中」で「自然と共生」しながら生きているようなイメージを喚起する。

ただし、その一方で『マルガーシ』が映し出すのは、バイクで家畜を追う男性、ゲルの外に設置されたソーラーパネルから発電された電気を使ったり、ゲームをしたりペットボトルで遊ぶ子どもたち、ワクチンを打たれる家畜たちなど、私たちと同じように現代を生きるモンゴル遊牧民の姿でもある。

彼らの暮らしには、バイク、ソーラーパネル、ゲーム、ペットボトル、ワクチンなどが欠かすことが出来ないという意味で、それは明らかに資本主義のネットワークの中にある。その様子が、人、動物、人工物の関係を通じて示されている。

モンゴル遊牧民の生活は、日本で暮らす私たちの生活と完全に切り離されているのではない。資本主義の周縁部で暮らすからこそ今の彼らの営みがあるという現実を、『マルガーシ』は映し出している。

3. 関係を通じて関係を描き出す

そうした資本主義の周縁部における人、動物、人工物の関係が、園木さんの関係を映し出すことで描き出されているのが、『マルガーシ』のユニークな部分であると言えるだろう。

私が映像を観て印象に残ったのが、園木さんに話しかける人々(撮影時に園木さんは彼らがモンゴル語で何を言われているかわからなかったとのことだが、映像には字幕がついている)、園木さんを遊びに誘う子ども、園木さんに近寄ってくるヤギなど、園木さんが撮影しているからこそ撮られた映像がとても多く使用されていることだ。ところどころで園木さんが戸惑いながら家畜の世話や解体を手伝っているシーンも挟まれている。

これがまさに「観察型ドキュメンタリー」と銘打ちつつも「ホームビデオ」たる所以だろう。「ホームビデオ」とは言っても、園木さんがお世話になった家族だけのホームビデオではなく、「家族」として迎えられた園木さんを含めた「ホームビデオ」であり、園木さんの存在なしには成立しない。その意味で、「観察型」とは言いつつも、がっつり「参与」しているドキュメンタリーなのだ。

これにより、園木さんの関係を映し出すことを通じた現代を生きるモンゴル遊牧民、動物、人工物の関係の描写が可能となっている。そして、客観的なドキュメンタリーとは異なる、地に足のついた映像作品に仕上がっている。

4. バンドのメジャーデビュー後にはじめて出したアルバムのような良さ

超個人的な話だが、私はバンドがメジャーデビュー後にはじめて出したアルバムの荒削りだけれども、ストレートな情熱があり、これが自分たちだ!と叫んでいるような音が好きだ(例えばBUMP OF CHIKENの『jupiter』)。『マルガーシ』はそんな良さを持っているように私は感じる。

私自身は、ゾウという動物が調査対象であることもあり、ゾウの身体性や感情、知性、そしてタイ東北部のクアイの人々とゾウが織りなす関係の豊かさを、動物園でしかゾウを見たことのない日本人にどのように伝え得るのかということを考えている。その中で、映像人類学やマルチモーダルな調査と表現に注目してきた。

もちろん民族誌映画や映像人類学的な映像作品は、テーマも手法も多岐に渡り、それをひとまとめにして何か述べることは難しい。だが、民族誌家や文化人類学者たちの撮った作品は、マリノフスキーが提起した文化人類学におけるフィールドワークの条件(一年以上の長期滞在、現地語の習得、現地の人との信頼関係の構築、これらを通じて現地社会の成員として受け入れられること、研究者としての学問的目的と意義の理解、専門的な知識と分析能力の習得など)を前提としつつ、撮影者がそこで起きていることをある程度は知りつつ撮影している場合がほとんどではないかと思われる。それもあって、ロングショットが多用されたり、フィールドの何も起こらなさ(これは文化人類学者が何もしていない暇な時間を過ごしていることを意味しないことに注意)が映像に反映されている傾向があるように感じる。

それと比較すると、『マルガーシ』は民族誌映画ではないし、撮影のための滞在も文化人類学者のフィールドワークと参与観察とは異なることがわかる(だからこそ園木さんは文化人類学の参与観察にリスペクトを払いつつも、「観察型ドキュメンタリー」や「ホームビデオ」と称している)。だが、それが良いのだと私は思う。

多くの文化人類学者は、修士課程もしくは博士課程でフィールド調査をはじめる際に、下調べなしにフィールドに入ることはないだろう。事前に、テーマを設定するための理論枠組みに関連しそうな議論を渉猟するし、フィールドに関する情報を読み込んでから入る。フィールドに入ったものの言語が全く出来ないということはないし、信頼関係を築くため、フィールドに入って一か月もしないうちに積極的に映像を撮るということをする人も少ないだろう。そもそも撮影自体が、自分も働く系のフィールド(例えば、調査先でインターンや見習いをしながら調査をする場合など)だと難しいこともあるし、どうしても他の作業(フィールドノートを取る、広い視野でその時々の関係や配置を見る、五感で感じるなど)と干渉してしまう。

園木さんが言語を習得しないまま、はじめての滞在で、一ヶ月という(文化人類学者にとっては)短期間で撮影するという所作は、文化人類学を専攻する私たちにとってはなかなか出来ないことなのだ。

これによって、『マルガーシ』は、自分がはじめて見聞きすることを、新鮮なまま受け取って映像化することに成功している。その驚き、面白さ、戸惑い、感動が、映像として映し出されている。だから、映像の全てがキラキラしている。

この良さは、想田監督の観察映画の理念を参照しているからこそ生まれたものだろう。

園木さんがこのスタイルを貫くのであれば、きっと『マルガーシ』のような素晴らしい映像作品がこれからも生み出されていくのだと思う。それは園木さんの関係を通じてそこに暮らす現地の人々を取り巻く多種の関係を映し出すものであり、観察映画の理念に基づくものとなるのではないだろうか。

一方で、園木さんが「家族」としてモンゴルでの撮影を続けたとしたら、きっと二本目、三本目の作品は『マルガーシ』とは異なるものになるであろうことも予感する。きっと、ディテールに魂の籠った、より民族誌映画に近い作品となるのではないだろうか。それはそれで観てみたい。その意味で、『マルガーシ』は、「バンドのメジャーデビュー後初アルバムのような良さ」のある作品だと私は思う。

5. おわりに

『マルガーシ』上映会から、かなりの時間が経ってしまった。そうこうしている間に、園木さんから制作後記が出された。

そして、Takuma Ohashiさんの素晴らしい感想記事も出ている。

Ohashiさんの文章で、はっとさせられた一文があった。

忘れてしまう、忘れてしまうよ。僕が生きていくのに本当にたくさんの存在にケアされていること。

Takuma Ohashi

私自身が研究において、クアイの人々とゾウの関係を文化人類学的に考える上で、マルチスピーシーズ民族誌に関する議論の参照を避けることは出来ない。多種の関係の中に常に既に私たち人間は生きていて、私たち人間という存在は多種の関係の中で生成する。それは、ある種のデフォルトとして私の頭にインストールされている。そして、それがゾウを飼育するクアイの人々の存在論や、小さい頃から慣れ親しんできた八百万の神さまがいる世界と類似していることもあって、多種の関係の中にあるということは私にとっては当たり前のこととなっている。

けれども、おそらく多種の関係にあるということを認識しにくい環境で生きる人もいる。もちろん世界全体で見たら、そういった環境にいる人の方が少ないかもしれない。けれど、資本主義の中心に近い方に位置する日本では、きっとOhashiさんが言うように、多種との関係の中にあることを忘れたくなくても、忘れてしまう、もしくは忘れさせられてしまう。

研究を、理論を、どうしたら実践へとつなげられるのか。文化人類学の概念が実践的な概念になったとき、一般の人々の間に広まったとき、どうしたらその理論的な背景や複雑性が失われずにすむのか。それは私がずっと考えていること。映像はきっとその可能性を開くものの一つとなり得る。

『マルガーシ』を通じて、園木さんは改めてそうした可能性を模索する「同志」だと確認したし、それを切実に求めている人がいるということを知ることが出来た。Ohashiさんのように透き通った感想は書けないけれど、ここにこの備忘録を残して未来の「同志」たちと共有することで可能性を広げていきたい。

なお、「マルガーシ」とはモンゴル語で「明日」を意味するらしい。きっと、『マルガーシ』が可能性に満ちた明日へ続く道を開いてくれることだろう。

Ohashiさんの記事に対する園木さんからのリプライも投稿されている。こちらも素晴らしいのでぜひ。

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Tomoko Oishi
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