アーティスト・中村菜月さんの個展のキャプションに対話者として参加させてもらいました。以下本文です。
flower wolf 対話者:曽布川祐
※Na/中村菜月 Yu/曽布川祐
Yu:
一見すると、この絵はオオカミを、それも何か邪悪なものを持ったオオカミを描いたもののように見えます。この絵は、実際には何をイメージして描かれたものなのですか?
Na:
悪って何だろう、ということを考えながら、悪役の象徴としてオオカミを描きました。子ヤギを食べたり、ブタを食べたり、おばあさんを食べたりと、物語の中でオオカミはしばしば悪役になります。大体最後は殺されて、めでたしめでたし。読者の自分も、あーよかった、なんて思うわけです。この時に、悪を決定しているのって自分自身だなと思うのです。何かを悪とすることによって自分は「良いヤツ」になろうとする。
Yu:
なるほど。
そういった物語が伝えているのは、 “はじめに悪ありき” というイデオロギーですね。要するに、「悪の方が先にあり、それ故に善が要請される」という言説です。しかし、この関係は必ずしも可逆性の無いものではない。菜月さんは、「悪」を作っているのは「善」の側の要請によるものだと考えているのでしょうか?
Na:
はい。自分が「善」側になる為に、悪と決めつけてもよいと判断した対象を「悪役」にするという構造があると思います。
Yu:
多くの物語では、オオカミは残虐な方法で殺されますね。そういった “善の暴力” が正当化されるのは、彼が “悪” だからです。しかし、菜月さんの絵からは、オオカミ自身が自ずから “悪”
という役になりきっているようにも見えます。このことについてはどう思いますか?
Na:
「役」を与えた者は対象をその「役」として見るため、対象が「役」そのものであると思い込んで見ます。また、「役」を与えられた者はまるでその「役」を、与えた者の期待に応えるかのように演じるものだと感じています。ちなみに、このオオカミには輪郭線や体の決定的な描写をしておりません。歪んだ線の集合でオオカミのように見せているだけ、です。
Yu:
まるで、ミシェル・フーコーの論じた理性と狂気の関係のようですね。
なるほど! 確かに、よく見るといくつかの線はオオカミの形を見せるために、また別のいくつかの線は、そのオオカミに印象を与える為に役立っているように見えます。
菜月さんは最後に目の点を描き込んだようですが、目だけはこれらの線と違う機能を持っているのでしょうか? それとも、単に作業の一番最後だったというだけでしょうか?
Na:
善悪の関係に限らず、人は誰しもがそのように役者的であると感じます。ユダヤ人をアウシュヴィッツに強制移送したアドルフ・アイヒマンも、極悪な人間というよりはごく普通の人間だったように思います。淡々と、与えられた自分の仕事をこなしていたという意味で言えば「よいこと」だったのでしょう。アイヒマンテストとも呼ばれるミルグラム実験でも、ごく普通の人間が自分の与えられた状況により、普通では考えられないようなことを簡単に遂行してしまいました。人が人を殺すということはとても残虐で非人道的であるとわたしたちは当たり前のように理解していますが、普通の人でもそのようなことを行ってしまう可能性があるのだと思います。
オオカミにはもともと口だけを描いておいたのですが、悪と決定されても彼は世界を見ることを放棄しない、という願いを込めて描きました。例え自分が悪役とされても世界をみる、ということと、自分が何かを悪と決定しても、その対象と常に目を合わせていなければならない、という思いを込めています。この展示には、虹の街というタイトルをつけました。虹とは何か。この絵に関して言えば、それは目だと思います。
ちなみに、ミシェル・フーコーの論じた理性と狂気の関係とは、どのようなものだったのでしょう。
Yu:
人は誰しもが役者的、というのは興味深い考えですね。
しかし、もしアイヒマンなどの例が全ての人間に完璧に当てはまってしまうとすると、わたしたちの主体性には判断の自由がないことになってしまう。
そうではない可能性がある、という想いが、このオオカミの目にこもっているということでしょうか。
フーコーの論じた理性と狂気の関係について、非常に基本的なことですが、同時に非常に重要なこととしてあるのが、理性と狂気は無関係ではない、ということです。理性はしばしば、狂気を自分と切り離されたものとして語ります。しかし、狂気は理性の言説によって描線を与えられたものであって、狂気が自ら自分の存在を主張したわけではない。フーコーはそういった関係を権力構造に関連づけ、それがいかにして統治のために働くかを論じました。この議論は、理性と狂気を、そのまま善と悪の関係に置き換えても同じように考えることが出来ると思います。
Na:
フーコーのいう狂気とは、「狂っているから狂っている」のではなく「社会がそれを狂気と定めるから、狂気というものになる」ということでしょうか。
人は誰しもが役者的であるということは、随分前から常々感じていることです。
はい。皆アイヒマンのようになる可能性を持っているというだけで、決して全員がアイヒマンのようになるというわけではないと思っています。実際、実験を放棄した被験者もいました。混同してしまいそうですが、アイヒマンは物語のオオカミと読者に置き換えれば、読者側、わたしたち側です。わたしたちがオオカミ側になることももちろんありますが。
はじめは、オオカミに目を描いておりませんでした。悪だと指定され、悪役を演じるオオカミにはもう何も見えていないと思っていたからです。けれども、そんなはずはないと信じました。そして悪を決定する側になってしまったわたしたちも、オオカミの目を見ることが出来るはず。つまり、主体性には判断の自由があるし、それを失わずに守っていかなくちゃ、と思うのです。
Yu:
そうですね。何が狂気なのかを決定するのは、常に狂気の外部だとフーコーは考えました。時代や場所の(権力機構の)都合に応じて、狂気の枠組みは揺れ動いてきたのだと彼は論じています。普遍的な意味合いでの「狂気」という概念は存在しないのです。
まさに「眼差しの奪い合い」ですね。
わたしたちの主体性は、これまでのどの時代よりも大きな負担を強いられているのかもしれません。誰しもが悪になるような状況に立たされたとしても、「わたしはそうはならない」というある種の客観性が要請されます。
現代は、精神分裂の時代だとも指摘されます。常に自分の主体性を見張るもう一人の自分が要請されるからです。しかし、分裂が目に見えるものとして描かれていない「悪」の姿は、それ故に美しく見えることもあるかもしれません。わたしには、菜月さんの描いたオオカミが愛おしく見えますよ笑
菜月さんにとってこのオオカミはどんな存在ですか?
Na:
都合によって、というのはまさしくその通りだと思います。一枚の大きな絵画の上から小さな額をあてがって、それを右だったり左だったりと動かしているようなものだと思います。
ネットの普及によって、一生のうちに関わる人の数が急激に増えたと思います。とくにここ5年では価値観の更新がめまぐるしいなと感じています。そんな中で自分の主体性は、他の誰よりも自分自身に見張られていると思います。
愛おしいですか、ありがとうございます笑
わたしも、愛おしいと思いながら描きました。誰もが「いいやつ」になろうとする中で、悪役であることを受け入れているオオカミって、いいやつだなあと思ってしまって。あ、これは物語の中で描かれているオオカミ全般というわけではなく、ここに描いているオオカミのことです。
Yu:
僕も、映画などを観ると、悪役を応援しがちです笑
じゃあ、最後の質問ですが、多くの物語の最後で、「悪役」は悪と指名されたまま、その役割を全うするように死んでいきます。それは、「悪役」に対立する「善玉」にとってはめでたしめでたしですが、もちろん「悪役」にとってはそうではないでしょう。
菜月さんの描いた「悪役」のオオカミにとって、「めでたしめでたし」となる物語があるとしたら、それはどんな結末になると思いますか?
Na:
難しい質問ですね。和解、と言いたいところですが、もしも自分がオオカミだったら、お互いに関わらずにそれぞれで生きていくことかなと思いました。和解しても記憶をひきずってしまうので、できることなら関わらずに生きていきたい。
オオカミは街から出ていきました。めでたしめでたし。
おしまい
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