ジャイアンはなぜあんなにも『たけし』なのか
いつもの公園を歩きながら春の夜風に吹かれ、僕は考える。
ジャイアンの「たけし」感は異常ではないか、と。
ジャイアンといえば、ご存じ『ドラえもん』に登場する力自慢のガキ大将だ。
彼の本名は剛田武。
「たけし」という豪快さや力強さを連想させる魅力的な名前は、彼の風貌、性格、立ち振る舞いといったあらゆる面でマッチしているように僕は思う。
もし、『ドラえもん』というコンテンツを全く知らない人に、
【Q.下記ツイート内の画像の中で「たけし」さんは誰でしょう?】
というクイズを出題した場合、正答率は少なくとも90%を超えると分析する。(おいもと調べ)
(2023年5月3日現在、『映画ドラえもん のび太と空の理想郷』絶賛上映中!!)
◇◇◇
それからというもの、僕は「名は体を表す」という言葉について深く考え続けていた。
「名は体を表す」とは、「人や物の名前は、そのものの性質や実体を示している」ことを表す言葉だ。
なぜ、それっぽい名前になるのか、その理由を考えていたのだ。
ジャイアンに限らず、現実世界でもその人らしさのある名前の人は多いと思う。
だが、ジャイアンの異常なたけし感には、それだけでは説明できない何かを感じる。
仮にジャイアンと初対面で「おれ剛田武!よろしくな!」と自己紹介を受ける機会があったなら、「めっちゃたけしやん…」と思ってしまう自信がある。
なぜジャイアンがこんなにもたけしなのか、その謎を解明するために「名付け」について僕が考えていたことを書き記していこうと思う。
◇◇◇
「名」を語るうえでまず注目すべき点は、必ず「名付け親」が存在するということだろう。子どもには親族が名付けを行い、植物や動物、惑星なんかには発見者が名付けを行うのが一般的だ。
新種の植物や動物を「発見」したときに人類が名付けを行う理由は、本質的には「支配」にあると僕は考えている。
名前のないものに名付けを行い、未知のものを既知のものに変容させることで「人類の理解のおよぶもの」としてカテゴライズし、精神的優位性を担保する。
この名付けのパターンで採用されがちなのは、「そのもののイメージ」「そのものの特徴」「発見者の名前」あたりだろうか。例えば、「メジロ」なんかはこの例に当てはまるだろう。目の周りを縁取るように生えた特徴的な白い羽毛がその名の由来であろうことは想像に難くない。
このパターンは特徴を把握したうえで名付けを行っているため、「名は体を表す」のは当然といえる。
対して、子どもに名付けを行うときはどうだろうか。自分の子どもといえど、生まれたばかりの子どもがどのように成長していくかなんて誰もわからない。
ジャイアンママだって、息子が「たけし」の名にふさわしいパワー系に育つという確証はなかっただろう。
それでも、人名がその人の特徴、らしさを表していることは往々にしてある。なぜか。
僕はこの不思議な現象について考え、子どもに対する名付けには他の名付けとは異なる特殊性があるのではないかという仮説を立てた。
それが「願い」だ。
親が子に名付けを行うときには「こんな子に育ってほしい」といった願いが込められる点で、メジロのような「支配の名付け」とは違った様相を呈すると考えたのだ。
家族の一員として迎え入れる儀式とみると、多少なりとも「支配」の色はあるのかもしれない。だが、未知のもの――敵対する可能性のあるもの――に対する名付けとは、明らかにその性格は異なるように思われる。
これをジャイアンに当てはめてみよう。
ジャイアンの親といえば、まず思い浮かぶのがジャイアンママだろう。ジャイアンママといえば、腕力自慢のガキ大将ジャイアンを力で黙らせるパワー系ママである。
ジャイアンママの一存で「たけし」の名が決定したのか、それは定かではないが、起案や助言くらいはしていると考えてよいだろう。
あくまで僕のイメージではあるが、「たけし」という名には猛々しさや力強さを感じる。RPGで戦士か魔法使いかと問われれば、ほとんどの人が戦士っぽいと答えるだろう。
ここには、パワー系ジャイアンママの願いがこもっているように感じられるのだ。
だが先述の通り、願いを込めて名付けたからといって、子どもが本当に願ったような人物に育っていくとは限らない。
ここでもう一つ重要な要素として考えられるのが、子どもを取り巻く環境である。
『ドラえもん』における描写を見るに、ジャイアンママはジャイアンに対してこぶしを振るって実力行使を行っている。この行動に対する賛否はさておき、これが剛田家の教育方針なのだろう。つまり、ジャイアンは幼いころから「力による支配」をその身をもって体験しているわけである。
そして、この方針はかなりジャイアンママらしい教育方針だと僕は思う。我が子が過ちを犯したときは痛みをもって反省を促し、打たれ強く育ってほしい。そんな願いは、たしかに「たけし」の名と通ずるものを感じる。
これは、ジャイアンの人格形成に大きな影響を与えるはずだ。事実、ジャイアンがコミュニティ内で力による支配を行っていることは周知の事実である。
親の願いが名前と環境に影響を与え、子どもは親が作り上げる環境に左右されながら育っていく。そう考えると、その名前らしい子が育っていくことは決して偶然ではないのかもしれない。
さて、話が長くなってしまったのでひとまずここまでの結論を述べよう。
なぜジャイアンはあんなにも「たけし」なのか、それは名付け親であるジャイアンママの願いと、親子を取り巻く環境がジャイアンの人格を形成したからなのだろう。
…だが、ここまで述べてきたのはジャイアンがもし現実世界に存在した場合の話であることにお気づきだろうか。
ジャイアンを語るうえで忘れてはいけない人物が、もうお一方いらっしゃるのだ。
そう、『ドラえもん』の作者である藤子・F・不二雄先生である。
ジャイアンはフィクションの世界の住人だ。その意味では、真の名付け親はジャイアンママではなく藤子・F・不二雄先生ということになる。
これに気づいたとき、「キャラクターに対する名付け」は極めて特異な行為ではないかという考えが頭をよぎった。
ここまで解説してきた「支配の名付け」と「願いの名付け」双方の性格を含有する名付けなのではないかと考えたのだ。
キャラクターは作者自身が生み出したものなので、当然我が子のような愛着が湧くだろう。どんなキャラクターにするか、性格や背景、さらにはストーリーにおける役割に応じた名前をつけたくなるのは言うまでもない。
このようにキャラクターに対する名付けも根本にあるのは「願いの名付け」であるわけだが、現実の子どもに対する名付けとの明確な相違点がある。
それは、作者が願いさえすれば、キャラクターは作者の思いのままに育っていくということだ。
現実で「たけし」と名付けたからといって、必ず戦士のような力強さを持つ人物に育つわけではない。魔法使いのような賢さが魅力の「たけし」さんも当然ながらいらっしゃるわけだ。
だが、キャラクターの場合はそうではない。作者が「こんなキャラクターがほしい」と求めれば、ふさわしいキャラクターを思いのままに生みだせる。
そして、その時につける名前は十中八九、キャラクターの特徴にマッチした名前になるだろう。
果たしてこれは純粋な「願いの名付け」といえるのだろうか。名前によってキャラクターの特徴や役割を定義する、「支配の名付け」的な性格を有しているとはいえないだろうか。
現実で「らしい名前」の人は存在する。だが、ジャイアンの「たけし感」は現実のそれとは明らかに一線を画している。
それは、藤子・F・不二雄先生がジャイアンというキャラクターに演じてもらいたい役割を願うと同時に、恣意的な支配を行っていたことからくるものだったのだ。
◇◇◇
…というところまで思考し、この文章を書くに至っている。
ここまで書いて、「名前もキャラ付けも作者が自由にできるんだから当たり前だろ」という身もふたもない結論に至ってしまったが、ここまでの思考を無に帰してしまうのはあまりにもったいないため、この雑記を世に出してみることにする。
ここまでらしいことを述べてきたが、これは素人である僕の頭の中に浮かんできた事柄を文字に起こしただけのものだ。論理的な整合性など皆無であり、当然、結論など出ようはずがない。(僕の思考は大体そんな感じである)
だが、この思考の軌跡や切り口が何かの役に立ったり、コンテンツとして楽しんでもらえたりすることを信じて、これからもなんの意味があるかわからない思考を発信していこうと思う。
この文章が創作を愛する人、名付けをする機会のある人、名前の専門家など…誰かの目に留まり、新たなひらめきや知見を生みだす材料となれば幸いに思う。
…ちなみに僕の本名は「らしくない名前」として有名である。