見出し画像

学歴なんか関係ない 大日本帝国と史論家山路愛山の時代8  



懸賞金を狙って史論家を志す


山路愛山(1865~1917)

 既述の通り愛山に思想家の骨格を与えたのは静岡時代であったといえよう。歴史家になろうと志したのは、二一、二歳辺りのことである。新井白石や、頼山陽に親しみ、徂徠を読むようになってから、白石は嫌いになったという。徂徠が白石を敵視していたのが移ったのであろうか。道学先生を嫌い、豪放磊落な感もあった彼に傾倒した山路愛山は、明治に活躍した徂徠学派でもあった。

山路愛山に多大な影響を与えた荻生徂徠(1666~1728)

  
 歴史家になろうとした動機が少し変わっていて「文部省で教科書の募集をしたことがあるが、その懸賞金が千円でだつたからこれが取れると大変だと思ひ」(「独学」) 準備を始めたのがきっかけで、その過程で歴史書をたくさん読むようになってからだという。同時代の史家である田口鼎軒からも影響を受けたが、彼の自由主義的な経済思想には反発を抱いた。
 
 明治二〇(一八八七)年に文部省は歴史教科書の草稿を募集した。残念なことに、応募の準備に熱中するあまり期限切れになってしまう。やがて彼は本を読むだけでは満足できなくなり

 「人と云うものは何でも全力を注いで一つの事に擢んでさへすればそれで宜いのだから、僕も史学文章を以て世に立たうと、恁う決心した」

 のであった。選択と集中である。
 懸賞金目当てとは愛山流の諧謔でもあったかもしれないが、彼の学問と生活が生々しく結びついていたのも事実だ。

 「文章すなはち事業なり。文士筆を揮ふ猶英雄剣を揮ふが如し」[i](明治二六)

 で始まる一文は彼の態度をよく示している。ここでの「文士」というのはいうまでもなく、「武士」の明治版である。彼が言うには、華麗の辞やら美妙の文をいくら遺したとしても、「人生に相渉らずんばこれもまた空の空なるのみ」である。この箇所が付き合いのあった北村透谷の激しい怒りを買ったのはよく知られている。愛山の論は「ユチリチー論」だというのである。愛山の文学の意味は幅広く、歴史や新聞の文までを含んでいる。透谷はそれを狭く純文学的に捉えた。両者の文学の意味は正反対であった。詳しくは坂本多加雄『山路愛山』(吉川弘文館)を参照頂きたい。

早くして亡くなった坂本多加雄(1950-2002)

記者は諸君の公僕なり


 愛山の言いたいのは、格好をつけた自意識過剰な文ではダメだということであった。それは自己陶酔と隣り合わせである。インテリの気取った姿勢、それは愛山に言わせれば官学といって政府と密接に結びついているような人々に顕著である。俗世をバカにしきった高踏的姿勢ではダメなのだ。
 愛山にとって重要なのは、読み手の心を動かすことといえる。

 「・・・僕の事業と云ひしは決して具体的に表はるべき事功のみ指したるに非ず」なのであり、「心霊が心霊に及ぼす影響は」事業と呼んでもよいと彼は考えていた[ii](明治三五)

 この論争で愛山は悪者にされてきたが[iii]、彼の書き手としての志しに注目すべきだろう。愛山は、信濃毎日新聞の主筆を務めた際に

 「されば記者は諸君の公僕なり」

 と宣言している。さらに、「ややもすれば六づかしき漢語を交へ不透明なる字句を列ね」る風潮を批判もした[iv](明治三二)。これは彼が依拠した平民主義という立場と関りあいがあった。愛山にとって書き手と読み手の関係を満たしてくれる世界は、自らの美意識を構築するだけの芸術文にはない。歴史の世界こそが彼を満足させた。平民の発達を研究し、それを人々に知らしめ、彼らの自覚に結びつける学問だからである。平民の高次の国民意識の形成に結びつけようというわけだ

 彼は小から大に構想を膨らませるのではなく、先に大きな目的意識を持ちそれから論証を積み上げていく人であった。だからというべきか

 「今の文人は昔の鎖国時代の大名の如し。あまり領分が狭ま過ぎる様なり」[v](明治三八)

 とその不満を述べている。彼らは「作物に骨を折らぬ」ために矮小化している。そして随伴する「本屋雑誌屋は文人の味方のやうな敵なり」というべき存在であって、「粧飾を上手にして、まんまと首尾善く世間をだまし、飛んだ喰せ物を売つくることあり」とその本性が売文にあるのを見抜く。先の論争でも窺える上っ面だけ飾った文章への警戒は、その半面である内容の貧しさを危惧してのことだった。

 愛山はいう。

 「文人の文を作るは世を治めん為めなり。世に説教せん為めなり。世人の機嫌を取らんが為めにはあらず」
 
 ここに彼の文士としての最終目標や、「公僕」の意味が明瞭になっている。決して迎合するという意味ではなかった。

下町の学者たらんと欲す



 民衆の「公僕」たろうとした彼は、山の手よりも下町の立場をとった。

「山の手学者はいかにも見識高く、立派であるから、学問も進むであらうが、しかし世を済ひ、道を広めると云ふ点は、下町学者に及ばぬと思ふ」[vi](明治三九)

 と高飛車な学者の態度を批判し、俗受けする分かりやすい文章のほうが、影響力もありよいのだとした。彼にとって模範とすべき代表者は、史家の頼山陽であった。山陽の文章は普通の武士や、庄屋の息子、誰にでも読めるように書いてある。そして彼は、王公に仕えず独立の生計を立てて、自由に気焔を吐いた。愛山はその姿がいかにも下町的だというのである。
 
 特に彼が強調しているのは、山の手派の使う難解な「言葉」と、彼らが見ている現実の「事物」とが適合することが困難だということであった。簡単に言えば、机上の空論を振りかざしているのではないかという懸念だ。

 明治にはもう一人「下町」の立場を取った人物がいた。「学者職分論」で、学者が官に入りたがる姿勢を否とした福沢諭吉である。彼は誇りを持って民間に留まり平民の教育者として活躍した。愛山は彼が逝去した際、「嗚呼彼れ惜むべきなり」(明治三四年二月九日『国民新聞」)を書き、

 「余は彼が自己の分を知り、自己の領域を解し、而して最も善く自己の特長を発揮したる自知の明に敬服するのみ」

 と畢生の豪傑の死を嘆き悲しんだ。愛山が福沢に共感したのは彼の「独立自尊」の精神であり、官に媚びず在野こそが「楽地」であることを人々に教えたからである。(ついでながら、若き日の尾崎行雄に対し、文は「猿が読む」ものだと思って書くべしと教えたのも福沢だ)愛山は「福沢イズム」に深く感化された一人であった。

日本近代思想の父福沢諭吉

 福沢諭吉は「日本随一世界的大 漢学者」と荻生徂徠を称えた(福沢三八「父三題」『父諭吉を語る』6頁、1958年、慶応通信)。愛山が徂徠を敬愛していたことと、福沢のことも称えていたのは偶然の一致ではないであろう。言ってみれば、日本的合理主義の精神がそこには流れているのではないだろうか。かつてとりあげた司馬遼太郎も、徂徠を持ち上げていた。筆者が書いたことのある津田左右吉は批判史学で知られるが、彼にも親和性を感じる。筆者は自著で以下のように述べた。
 「・・・(津田左右吉)福沢の言論の意義を認め、その「操守と勇気」を称え、福沢の本を熟読玩味することを切望するとまで述べている。」(『津田左右吉、大日本帝国との対決』勉誠出版)

拙著

 史論を通じて、読者である平民をさらに高みに「国民化」していくのが愛山の狙いである。骨董品を愛でるが如く過ぎ去った時代と付き合い、実証に血道を上げる歴史家は愛山にとって「玩物喪志」を絵に描いたような人々であった。

 「たんに此ことがあつたとか、なかつたとか云ふ個々別々のことを穿索するのはいわゆる下等考証・・・」(明治二七)

 であるとし、児島高徳が実在したかしなかったかなどの議論に明け暮れる歴史家を痛罵した。彼らには国民の生活史という問題意識が欠落しているからだ。
 愛山が明治三〇年(一八九七)から三二年(一八九九)に所属した毛利家編輯所時代のことだ。同僚の堺利彦は愛山の様子を残している。

 「愛山君が編集副総裁になるといふ噂が伝はつた。それはたしか明治三一年一月、伊藤内閣が新たに出来て、末松(注:謙澄。同編輯所総裁)さんが大臣になつた時の事だつたろうと思ふ。・・・笹川、齋藤、堺の三人が山路排斥の運動を起したと。そこで山路君は堺に云つた。君も官学派に屈するかと。この詰責は堺に取つて意外だった。山路君は此の争ひを官学派と私学派との衝突と解してゐた。成るほど、民友社出身の史学者と、帝大出身の二文学士との間に不和が起つたのだから、官学私学といふ風に考へるのも、一応道理があるに相違ない」 [vii]

 愛山の反官学の態度はこのように強烈であった。学歴といった虚仮脅しには屈しないということだ。そこに何が真善美なのかを追い求める気概がある。

学歴に過度にとらわれるな



 昨今、東京大学の教授だから、有名大学の教授だからという理由ばかりでもないだろうが、それを売りにして本を出したり、持ち上げるという姿勢がますます強化されている感もある。権威主義は相変わらずなのだ。やたらと既存の知識を詰め込むことに長けていることだけで優秀と見なし、そういう人々を重用した結果どうなったのか。失われた30年はそうした人らの硬直によっておきたのではなかったか。もっとさかのぼれば、偏差値秀才の軍官僚があの無謀な大東亜戦争を指導したのではなかったか。こうした人々は先例のないことは基本的にやりたがらない人たちである。いつまでも憲法はそのまま手つかずであり、先例から外れることを極端に恐れる。そういう人たちに、国家の生存の決断力とか、判断力を期待すること自体難しい。ダラダラとした現状の維持が図られる。 
 日本がやたらと伝統主義に縛られやすいのも(小室直樹)、過去の判例をただ記憶し、墨守していればよいという司法の態度と無縁ではなかろう。世論が偏差値秀才をやたらとありがたがるのも、過去のファクトを記憶するのが優秀だという日本人の信仰に近い態度から来るものであり、それはどちらかというと、中国歴代王朝で採用されていた科挙制度に近い。度し難いほどの愚劣さといえる。
 日本を「構造的に優等生文化」と批判したのは竹内好であった(1948年8月「中国の近代と日本の近代」『日本とアジア』ちくま学芸文庫所収)。それが敗戦の要因の一つであるとみなしたのである。一理あると言ってよい。ぜひ竹内論文の一読を勧めたい。そして、その上で官学に対抗した愛山の気概に学ぶのはいかがであろうか。

竹内好(1910-1977)は「進歩的文化人」(谷沢永一)ともいわれるが、近代主義者ではなかったので、その捉え方は一面的である。



[i] 「頼襄を論ず」
[ii] 「透谷全集を読む」
[iii] 坂本多加雄『人物叢書山路愛山』(吉川弘文館)昭和六三 九八頁
[iv] 「新聞文学を論ず」
[v] 「文人領域論」
[vi] 「下町的文章の価値」
[vii] 『堺利彦全集第六巻』 中央公論社 昭和八 一八七頁

いいなと思ったら応援しよう!