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〈凡人の極楽の時代〉としての明治近代 大日本帝国と史論家山路愛山の時代4

〈凡人の極楽の時代〉としての明治近代
 
「日本に哲学なし」[i]とは中江兆民が咽頭がんで余命一年半と宣告され残した遺著の一文である。

中江兆民(1847-1901)


兆民と同時期に活躍した加藤弘之や井上哲次郎といった明治を代表する知性は、彼に言わせれば自前の哲学を有せず、ただ西洋の翻訳を日本語に直しているだけに見えた。兆民は続けて言う。

「国に哲学がないのは、ちょうど床の間に掛け物がないようなものであり、国の品位をおとしめることは確実である。(中略)哲学なき人民は、何をしても深い意味がなく、浅薄さをまぬがれない」

彼は西洋の「猿真似」をする日本を責めているのだが、あの東洋のルソーといわれた西洋派の知識人の発言だけに、重く響くものがある。 

明治人の自分たちの時代についての考察は鋭いものがあった。明治四五年(一九一二)に田岡嶺雲が近代の特徴を列記した発言を紹介しておこう。 

「今日は英雄の時代ではない。凡庸の時代である。天才の時代では無い、機械の時代である。選ばれたるものの時代では無い、均一均等の時代である。演繹と独創の時代では無い、帰納と実証の時代である。鷹と獅子の時代では無い、雀と鼠の時代である。聖人賢者の時代では無い、町人百姓の時代である。一国の政治は、衆愚の弾機装置の如き起立によって決せらるる時代である。教育は萬金丹の如く模型に打込んで、大小不同なき人物を製造する時代である。芸術は天馬空を行く想像の飛翔を容さず、地上の泥濘に写実の尾を曳く泥亀たるを誇り得る時代である。哲学を理想の大空より、プラグマティズムの名によりて、損益打算の帳場格子に引下す時代である。宗教を神秘の幽冥より、神学の名を籍つていはゆる高等批評の砂原に引出す時代である。小説をローマンチシズムの夢幻の朧より、自然主義の名をもつて、汚れたる現実の日影に曝す時代である。いはゆる偉勲をもつて昨日の徒士足軽の輩が公爵となりうる時代である。海老茶袴を脱いで三年すれば、天晴帝国劇場附女優となりうる時代である。平等の仮面を被つて平凡が踊る時代である。自由を笠に着て一寸法師が跳る時代である。ニーチェが激して超人を唱えざりし時代である。 幸福なる哉、斯かる時代に生まれしこと、光栄なる哉、斯かる時代に活くること。今日は凡人の極楽である。」[ii]


田岡嶺雲(1870-1912)

いささか主観的にも思われるが、彼の「凡人の極楽」という言葉は、近代化による人間性及びそれらを支える社会自体の「矮小化」を言い当てているように思われる。 あらゆる領域でこの傾向は進み、芸術、学問、政治、文学、宗教などから<大人物>はいなくなる。ニーチェはしたがって、<超人>の存在を待望せざるを得なかったというわけだ。なぜこんなつまらない奴が自分よりもいい要職についているのか、才能のある人物は嘆息せざるを得ない時代だ。

こうした意味での近代化は、現在にいたり頂点に達した感もある。人間がじわじわと扼殺され、その存在は機械にとってかわられる。私は一介の教師に過ぎないが、この仕事もいつなくなり、AIにとってかわられるのだろうか、家族を養っていけるだろうか。そういう危機感は常にある。すべてを均一化するということは人の個性などもいらないということなのだろう。その一方で個性の尊重というあたかも矛盾するような主張がなされているが、そんなことを言ったところで、打ち出の小槌のように出てくるわけがない。

こういった、今を生きる者ならば誰もが抱いている危機感は、的確に田岡によって100年以上も前に見抜かれていた。大人物たらんとする、そういう気概を持った人物からすればこの時代は、まさに〈生き地獄〉だ。明治人もまた、今日の令和人とそこまで大差ない断絶のなかを生きているとすらいえるのである。

明治三二年(一八九九)の『社会と人物』において徳富蘇峰は「社会の平凡化」について警鐘を鳴らしていた。

「社会が平民的なると同時に、注意す可き危険の一は人間万事の平凡化是れ也。平凡化尚ほ忍ふ可し。その堕落を惜しむ可しとなすのみ」[iii]


徳富蘇峰(1863-1957)

平凡化はある意味自分たちが望んだこと(平民主義の進行)でもあり不可避であったが、その堕落が何よりも恐れられている。本論でも示すことになる愛山の提唱した英雄論の背景にはこうした蘇峰らに通ずる危機意識が存在している。両人は平民主義に立ちながら「平民的傾向」の深化が何を意味するのかも恐れていた。これは一種のジレンマであった。

「社会の平凡化」論は平等を建前とし平凡化を強制する近代世界観に対する批判と見てよい。殖産興業という産業社会は必然的に国民国家化に行き着くのであるが、その際に求められるのは起業をし、利潤を追求する主体が社会的に平等に振舞う権利を取得している状態なのであって、フラットな世界観なのである。文明開化や自由民権運動といった潮流に影響を受けて出現した彼らが、なすべき思想的課題はその行き過ぎをいかにして調節しバランスを保つということであった。 

大衆化は、大正デモクラシーの時代になって本格化するが、大衆の本質は

よい意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである」(オルテガ 『大衆の反逆』)


ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883-1955)

と言われているが、こうした人々が主役になる時代とは、均一、均等のもとに高貴さを喪失し、進歩、革新の名のもとに自画像を見失った時代ということが言える。 個性の追求は、逆説的に「社会を平凡化」させた。本当の個性的姿とは、公に対して何をなしうるのかを常に追い求める人をいうのである。社会から自身を遮断し、殻に閉じこもる生き方を「個人主義」というのではない。 

一方に偏する議論ではなく「公と私」この二つのバランスを持った考察が今日の現代思想では欠かせない。それには明治時代にまで溯ることがなによりも有益であろう。

 愛山とは「公」と「私」にバランスを持たせようとし、また独自の国家観を打ち立てた明治時代屈指の思想家であった。彼は中江兆民が、批判したような西洋の翻訳型知識人を見下し、

吾こそは日本史研究から打ち立てた国家観の持ち主である

との自負を抱いていた。それは日本国家三元論というユニークな説となって現れていくのである。
 
*明治大正期の文は現代の日本人にはなじみのない漢語がたくさん使用されており、原文を損ねない程度でひらがな、カタカナなどに改めることにした。



[i]『中江兆民 日本の名著三六』中央公論社 昭和四四(一九六九)三七八頁
[ii] 「数奇伝」『明治記録文学集』筑摩書房 昭和四二(一九六七) 七三頁 
[iii] 「社会の平凡化」『社会と人物』 明治三二(一八九九) 二八頁

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