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〈老人〉が支配を始めた明治の日本   大日本帝国と史論家山路愛山の時代26

組織の硬直化

 
 明治二五年(一八九二)は山路愛山にとって画期的な年になった。八月に民友社に入り、この頃、田島たねと婚約をしている。年末の一二月二七日には麻布教会において結婚式を挙げた。家族を養うため彼は全力で文筆の世界で剣を揮うことを決意したに違いない。たねとの間には五人の子供をもうけた。

 少し前を振り返ると、明治二〇年(一八八七)に第一回衆議院議員選挙、帝国議会があり、教育勅語が発布されている。愛山の言う通り、日本の「器械備えつけ」は明治二〇年代になり十分な状況となっていた。これで名目上、日本は国民国家となった。課題は「名」に「実」を付与していく作業に移行してくる。それが愛山の危機意識であった。

 近代社会とは属人性の減少である[i]。制度や法律が主人の人間よりも優位に立ち、それを作った人間が存在感をなくしていくというわけである。
そういった問題意識は「我国老いたる乎」(明治二五年三月一九日『女学雑誌』)に出現している。愛山は明治も中盤になり近代化の進行は、活力の表出ではなく、「老化」なのではないかという疑問を抱いた。これは蘇峰が『新日本之青年』で述べていたところの

 「・・・吾人は我邦において成年(おとな)らしき青年を見るヿ(こと)多く、造り飾りたる青年を見るヿ多くして・・・」[ii](第三版明治二一「青年学生」)の不満と意識を同じくしている。

 老いとは言うまでもなく「死の始めなり」である。そしてこの老いるということはなかなか人にとって自覚することが難しい。だから老害となる。

老いの現象とは何か


愛山は老いの現象として三点を提示した。

㈠    回顧的の人になる(回顧なり)
㈡    新しく事を始めることができない(小胆なり)
㈢    事を行う虚礼に流れ敏捷ではない(ホルマルformal)

 個人が老いるのと同様、社会や国家も老いとは無縁ではない。今の日本などは完全に老人支配の国であろう。前例主義の官僚などは、老人マインドといえる。

「その国が長き歴史を有するが故に我はこれを老いたる国といはざるなり、その国が老人のみ尊ばるるが故に我はこれを老いたる国といはざるなり、その国が近頃建てられたるが故に我はこれを若き国なりといはざるなり」

国の老化に歴史の長短は関係ない

㈠だが「少年は反顧せざるなり、彼らは前途に希望を有するなり、彼らは今の有様のために生くる者に非るなり」。彼らは現状を維持するだけを目的とした生活はしない。胸中に未来への希望を持っている。愛山はいう。国に兵備、学校、文明の利器が無いことよりも、「国民に現在に甘んぜざる大希望なきを患ふるなり」という。

 これは何も日本の民衆だけの姿ではなかった。日本よりももっと深刻な状況におかれていたベトナムも例外ではない。革命指導者ホーチミン(一八九〇~一九六九)もフランスに植民地化され搾取されているにもかかわらず、現体制に満足する民衆の姿を嘆いていた。アジア圏では無気力な民衆の姿が問題にされることが多かった。こういった人々に指導者が活気を与えることは、大変な辛抱と苦労を必要とする仕事だった。

伝統主義者への批判



 わが国には「桜の旭日に香ふ如き大和魂勇武義侠なる日本男児」や「婀娜(あだ)優美なる日本貴女」もいる。富士・桜・菊・源氏・西鶴など誇る遺産はたくさんある。しかし愛山はこのままでは形骸になってしまうということを憂いている。彼は国粋保存論に対して賛意を示しつつも、遺産を有しながら何も為すことがなければ面目が立たないという。こうして彼は「名」に捉われ「実」に目を向けない表面的な伝統主義者を批判した。

 次に愛山は㈡の「小胆」から免れていた典型的人物として吉田松陰を挙げている。嘉永年間に伊豆下田から米国艦船に乗り込もうとした松陰を評して、「大胆なり、冒険なり、自由なり」と述べる。ここで重要なのは、愛山が松陰の精神性と、松陰の後塵を拝した攘夷派の精神性が切れていると理解している点である。彼にとって幕末の攘夷派こそ敵であった。そして次のように指弾している。

 「卑怯なる犬は人を見れば直ちに吠へ、卑怯なる人民は己に異なる者を見れば直ちに斥けて容るるあたはず。妄りに外国人を忌み、外国の文物を斥くるが如きはたまたまもつてその小胆を自白するのみ。」

 攘夷主義者こそ日本の国益にならない。なぜならば、外国を見れば敵視し、その良さを理解せず、ただ外国人は出て行けと声高に主張し、日本のイメージを落とす。しかしそうは言っても攘夷主義者の存在は死なない。愛山だって 結果的には 帝国主義を強力に乗したわけである。我々の心の中には 内なる攘夷があるはずだ。明治維新による「開国」は大国隆正がいうところの「大攘夷」の時代でもある。攘夷をやるための開国なのである。それは 内なる攘夷ともいえる。


国学者大国隆正(1793-1871)

 明治も二五年となり、幕末の攘夷は遠くなったと思ってはいけない。依然として排外的な火は燻っている。当時の国民の焦燥感を示すのが二一年(一八八八)に起きた大津事件である。これは露国皇太子を襲撃した警官津田三蔵の事件として知られている。地球を覆う大国であるロシアの報復を恐れる小国日本は震撼し、冷や汗をかいた閣僚らが辞任するに至った。蘇峰はこの時代の国民心理として「恐露病」という言を残した。

 愛山に言わせれば「外国に対して寛容の量なき国民はその国民の個人同志もまた相互に寛容の量なきなり」に他ならない。そして、日本人に寛容の量あるか、小事に神経を労せざるか、怒り易からざるか、闘い易からざるかと問い、国民に猛省を促した。この攘夷主義者は死んでいない。いま、ネット上で保守を名乗っているもののほとんどは、ウヨクに過ぎず、戦前の攘夷主義者の亡霊と言ってもよい。思想的伝統とは目に見えないだけで、残存しているのである。

虚礼こそが、人間社会を硬直させる



 次に㈢である。愛山は自分が無礼や無法の国であることを勧めているのではないといい、

「然れども少年にして大人の真似をなす者あらば我はこれを哀しまん」

というのである。創業の国民、未来に為すあるべき国民、世界に智識を求むべき国民が、礼法を持って相互を縛りあってはどうにもならない。虚礼こそ人間の付き合いを堅苦しくさせ、社会の流動性を殺ぐのである。

 「天下の勢定まらざるはもとより不可なり、然も少く定るは定まらざるの勝るに如かざるなり。大器は晩成す、大に為すあらんとするの国は少く固まるべからざる也」。

 筆者は人格には、「大人性」と「子供性」とが併存している状況こそ望ましいと考える。大人性を人間の「歴史的側面」(過去の堆積による知恵)、子供性を「非歴史的側面」(前例に縛られない未来志向)と呼んでいる。愛山は新しいものに目を輝かせる子供性を積極的に肯定したといってよかろう。こうして愛山は秩序固定化の時代を〈老化現象〉の表れと述べ、人々の一層の活力を促した。

 愛山がこの頃に発表した作品は、時勢から超然としている。今日の我々は、日清戦争という一大事件がこの次の年に起きたことを知っているから、慌ただしい時代だと想像するが、この時の愛山は余裕すら感じさせる。それはほんの束の間の日本国の余裕でもあったのかもしれない。では愛山がしたことは何であったか。それは徳川文化の名誉回復へむけての動きだった。



 
[ii]植手通有編『明治文学全集三四・徳富蘇峰集』(昭和四九 筑摩書房)一五六頁

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