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モーリス・メーテルリンク"Le Double Jardin"の翻訳を終えて
およそ半年間。ようやく翻訳が終わった。
『青い鳥』や『ペレアスとメリザンド』の原作者として知られるモーリス・メーテルリンクのエッセイ集。
タイトルは『二重の庭』。
この”二重”という語が謎めいている。ひとつには、生と死、そして過去と現在、眼に見える世界と見えない世界、実在とイメージ(比喩)などが重なる。いろいろな解釈ができると思う。
この本そのものがその"庭”という容れ物だ。
なかには、犬、ギャンブル(偶然性)、決闘(暴力と正義)、春、ローマ、自動車、普通選挙、蜜蜂、野の花、菊など、多岐にわたるテーマが色とりどりに散在している。
一見、雑然としているようにも見えるけれど、これらの短いエッセイ(17編ある)は、"未知なるもの"というモチーフによってひとつに縫い合わされている。訳しながらそう感じた。
メーテルリンク自身書いているが、彼は"神なき世界"に生きている。
神という語も、未知なるものに与えられたひとつの名前に過ぎないというのだ。だから、神が不在だからといって何をしてもよいということにはならず、私たちが無知であり、未来が未知である以上、この先何が起きるかはわからないのだ。
この点、ちょっと否定神学的でもある。けっきょく神の気配が漂っている。また、カンタン・メイヤスーの哲学も彷彿とさせもする。彼はいきなり物理法則が変わってしまう可能性を示唆している。
あるいは、いま読んでいるEmanuele Cocciaの"The Life of Plants: A Metaphysics of Mixture"にもたいへん通じるものがある。
これはどれほど知られているのか見当がつかないけれど、メーテルリンクはSPR(心霊現象研究協会)のメンバーだったようだ。(ちなみにあの、哲学者アンリ・ベルクソンやウィリアム・ジェイムズも会長を務めている)。本気で霊的なものを探究していたようだ。
『青い鳥』にはその香りが充満している。
(もっとも、この頃はオカルトが流行していたようで、ヴィクトル・ユゴーとかコナン・ドイルも降霊術とかにハマっていたらしい。)
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さて、本書の原書をなんとなく手に取った当初の目的は、1番目のエッセイ「ある仔犬の死について」を読みたかったから。
これはメーテルリンクが友人から贈られた「ペレアス」(!)という名のブルドッグについて書かれたものだ。
ペレアスは幼くして死んでしまったそうだが、彼と過ごした短い期間について、ユーモアと慈愛をこめて書かれていた。
メーテルリンクがペレアスを「よく見ている」ことが伝わってきて、その見るという行為が、そのまま親愛の証となっている。このエッセイでは死についてはほとんど触れられていないのに、読後、ペレアスの死と不在感がきわだち、胸に迫ってくる。
誰に頼まれたわけでもないけれど、この訳業は上のすばらしいエッセイを訳したいという思いから始まった。
もっとも、本作は1920年から刊行された『メーテルリンク全集』の鷲尾浩訳がすでにあるが、それ以来アップデートされていなかった。
今回翻訳をするにあたり、1904年にBibliotèque Charpentierより出版されたフランス語オリジナル版を底本とし、英訳版を適宜参考にした。
メーテルリンクの書く文章は格調が高く、また比喩を多用するため、訳し始めた当初は、正直なところ2つめのギャンブルについてのエッセイの冒頭を読んでも、それがギャンブルの話だとしばらくわからないほどだった。
(この時代の特徴なのか、それともメーテルリンクの特徴なのか、息の長い文章は和訳してみると三島由紀夫の文章に似ている。というか三島がその頃のフランス語の文章スタイルを拝借しているのだろうが。)
また、テーマが多岐にわたるため、自動車のエンジン部品や蜜蜂、植物の俗名・学名についてなど、いろいろと調べ物をするにも骨が折れたが、日々愉しみながら訳し終えられたことが何より嬉しい。ふだんは決して手に取らないであろう本とも出会えた。
微力ながら、また、完全なる負け戦とは承知しているが、訳すにあたっては最善を尽くした。少しでもこのエッセイ集のエッセンスが伝わりますように。
なお、表紙はいろいろ迷ったあげく「蝶と花」のデザインを選んだ。蝶々が花から花へ飛び移りながら蜜を吸うように、関心のある主題のエッセイから別のエッセイへと、気ままに読んでいただければ何よりの幸せだ。