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お市さんの双極克服記

幼少期

まず始まりは幼い頃の両親からの体罰、精神的虐待があったと思います
お父さんからの体罰やお母さんからの執拗な叱責が怖くて毎日顔色を伺って生活していました。
特に怖かったのは、一斗缶が積まれたコンクリート作りで真っ暗な倉庫に閉じ込められて、動くと一斗缶に潰されて死ぬぞと言われた体罰でした

いい子でいなきゃ

親からの洗脳により、いい子でいなければという強迫観念から、勉強をし続け、優等生であり続けました。しかし、それを褒められる事はありませんでしたが常に頑張るくせが着き頑張る事で生きていました。

いじめ

いじめには2回あいました
1回目は小学校6年生の時
いじめられていた子をかばったら私にはねかえり、クラス全員から無視され、隠れんぼで鬼にされチャイムがなるまで探しても誰もいなくて、教室に戻ったら全員いてニヤニヤ笑われたり、物を隠されたり捨てられたりしました

2回目は中学2年生の時
やはりクラス全員から無視され、お弁当の時間みんなが机を合わせて私の机だけポツンとなったり、すれ違う度にブス、死ね、と言われたりしました。
しかし首謀者と殴り合いの喧嘩をし勝った事で、二度といじめられる事はありませんでした
力だ!力で勝つんだと誓いました。

人生の初めての分岐点

其の間も頑張って勉強し進学校へすすみましたが、大学進学を考えた時中学の時からなりたかったコンピュータの専門学校に行きたくて初めて両親にそむきました
母は泣きながら「あんたは大学に行くべきだ」と言いましたが、父が「やりたい事があってやりたい学校にいくのはいい事だ」と言ってくれました

最初の結婚、離婚

コンピュータの国家資格を取りましたが、種子島にいくか、学校の講師になるか選ぶ時点で妊娠が発覚、当時付き合っていた彼と駆け落ちしようとまでして、親に許され結婚し、長男を産みました。しかし、この夫はDVで毎日のように殴られ蹴られ裸足で家を逃げ出し隣の家の方に匿われては戻るを繰返していました。
息子が2歳になった時やっと離婚が成立し、実家に戻りました。

発病

国家資格があったのでプログラマーになりました。息子の為にと毎日のように徹夜や残業を続けていたらある日、ポキッと折れたように4日間行方不明をおこしました。
あれが双極性障害の発病だったと思います。
しかし、その頃、30年前には鬱病等の診断はおりず、また病院にも行かずただのノイローゼですまされました。

キャリア(多分躁状態)

その後親の会社に入社、営業として設計士さんの会社に飛び込み営業し、大きな仕事を掴み億の売上をあげました。バリバリ働けてあれは躁状態だったのではと今では思います

再婚

28歳で再婚しました
30歳の時娘を授かりました。
とてもいい人で子煩悩で幸せな結婚生活でした

鬱期

30代で2人目の夫と株式会社を設立。しばらくは順調でしたが工場が経営難になり借金まみれになった頃、真っ暗な部屋でずっと籠るようになり精神科に連れられて鬱病と診断されました。これは誤診ではなく仕方ない事だと思います。元気な時には受診しないからです。
15年経ってもちっとも治らず寝たきりでした
薬は増えるばかり、家事も子育ても何も出来ないことに自己嫌悪になりまたマイナス思考になり鬱が酷くなるを繰り返していました
当時は家事や子育ては一切できず、当時の夫や母に全てやってもらう程でした。

その間に7階から飛び降り、木の中を落ちていき助かるという事件も起こしました。

250錠の薬を飲んで5日間意識不明になった事もあります

そうこうするうちに、夫がカードローンに手をつけ、多重債務になり、私が自己破産の道をつけてあげて全てが終わった後2回目の離婚をしました。

それから10年近くの記憶は曖昧でいつの間にかヘルパーさんがついて家の事をやってもらい、ご飯は実家で食べる毎日でした。  
閉鎖病棟には3回入院しました

息子との絶縁、孤独へ

そして、2018年精神病者の母など母ではない、自殺をするような母は母ではないと息子から縁を切られ、娘は東京に就職、愛犬の死、9年付き合っていた人との別れが重なり、躁の酷い状態、後で説明しますが頭の中はネガティブだけど体は動く混合状態になり自殺未遂をして5日間意識不明になり、ICUをでてから精神病院に隔離入院しました
親は私が気が違ったようになったのを見てもう治らない。一生精神病院だと覚悟したそうです

それほどおかしかったのです。
しかし3ヶ月の入院で少しよくなり退院しました。

人生の2回目の分岐点

それがきっかけで私は鬱病ではないのではないかとYouTubeなどのネットで調べまくって双極性障害を見つけました
これ!私これだ!と思ったのです
そこで転院をし、検査や心理テストなどを受け双極性障害と診断がおり、まるで違うお薬が出ました
鬱病と双極性障害では全くお薬が違うのです。
その頃は私のようなおかしな人は私だけだと思い孤独でした
孤独は人を殺すと思いました
何度も死のうとしました
しかし、そのYouTubeの双極性障害の人は双極性障害の人を仲間にして毎日zoomで話していました
私の大きな転機はその当事者会に参加した事です
当事者会とは基本同じ病気の人達が集まり病気についてや、薬や福祉サービスのような知識から雑談までを共有する集まりです

当事者会に入って奇行や鬱を繰り返すのが私だけではないと安心し、仲間ができたのです
私が起こした色々な事が症状だとわかり嬉しくなり、段々病状が落ち着いていきました。

精神障害者の孤独をなくすお茶会の始まり

しかしその当事者会のリアルで集まる会に参加するには東京と遠く、それなら名古屋に作ってしまえ!と、私自身が 精神障害者の孤独を無くすお茶会 を作りました
月に一度リアルで集まり、月に一度zoomで全国の人と話してます
皆孤独だったと言います
理解されないことが辛かったと言います
いまではお茶会の他にdiscordというアプリを使って毎日ボイスチャットをする当事者会もしています
毎日なので、躁状態なんじゃない?とかアドバイスしあってます
兆候を捉えてお薬を飲めば波は小さくなります。
そんなこんなで、辛くても誰か仲間と支え合い病気と向きあっているうち前進し始めました。病状がよくなってきたのです。

両親との和解

そんな時、ハッと気づいたら両親が老いていました。知らぬ間に弱い老人になっていました。びっくりしました。両親も私の繰り返される自殺未遂やおかしな行動を自分たちのせいだと認めてくれ、私の辛かった幼少期の虐待を謝ってくれました。本を読んで双極性障害を勉強もしてくれました。
お互い歩み寄りついに和解し、私は恨んでいた両親を許しました。

ピアサポーターになる

ピアサポーターになったきっかけですが、当事者会活動をしていたら計画相談員さんがそれならピアサポーターの研修があるよ
とチラシをくれたのがきっかけで
す。
何をするのかわからず研修を受けました
研修で私の体験談を書いたら反響をいただけて、こういうことする人になるんだと思いました
私の体験談が人様の役に立てるなんてなんて素敵なんでしょう
だから私は双極性障害についてこんな病気だよとお話してきました
沢山の質問をいただいたり、感想をもらい嬉しかったです
双極症が少しでも理解される機会をいただけて感謝です
生きてきた価値があると思えるようになりました

双極性障害とは

ここで少し私の病気である双極性障害、今は双極症と名前が変わりましたが、この病気についてお話します

私の病気は双極症1型です
いわゆる躁鬱病の躁が強い病気です
双極症には1型と2型があります
1型の躁状態は気分が高ぶって人の話を遮ってまで話続けたり、躁の勢いでバリバリ仕事をするが、うつ状態になり行けなくなり休職、退職を繰り返したり、イライラして人にいきなり当たったり、大きな買い物をして散財したり自己破産する人も多いです、自分は無敵だと思い無茶な事をしたり、頭の回転が早くなるので色々なアイデアがわいたり、これは後で見たら使い物にならないアイデアですが、例えば起業しようとしたりです
上司と大喧嘩して辞表を叩きつけた事もあります
治ったと思い込み勝手に薬をやめ、体調を崩して悪くなり最悪入院したりする人もいます
手帳が真っ黒になるくらいスケジュールを詰め込み約束しますが、鬱がきてドタキャンを繰り返し人間関係を壊したりもします
鬱になると何もできなくなります
お風呂すら入れなくなります
躁状態の時に弾けたぶん落ち込みます
寝たきりになり、そんな自分を責め続け、更に鬱に沈みます
人間関係を壊したことで自己嫌悪になります
躁状態で出来たことがまるでできなくなります
最終的には死にたくなります

双極症2型は鬱病と間違われるくらい鬱期が長く、たまに元気になる1型とはまた違う病巣です
鬱が長いのでこれまた辛い病気です

双極症にはあまり知られてない混合状態というのがあります

鬱から躁状態へ、躁状態から鬱へ変わる間に現れる症状です

考え方がネガティブなのに行動できるので自殺の可能性が高いです。鬱病より自殺の可能性が高いという数字が出ています

頭がポジティブなのに寝たきり
やりたいことがあるのにできないから自分を責め続けます

これら躁、鬱、混合状態は、突然くるので本人気づけないことが多いです
後であー、やらかしたーとなるのが多いです
頑張ることが怖くなります
躁状態を呼ぶきっかけになるからです
躁状態を呼ぶという事は必ずうつ状態が来るということです

いかに波を小さくするか、それをいつも考え、兆候がでたらすぐ対処しなければと構えて生きています

しかし、躁状態の時は疲れを知りません。疲れないのです
だから鬱状態の時にその分反動がきます
また鬱状態でも躁状態でも人に迷惑をかける事が怖いです
そして何より理解されないことが辛いです
鬱状態は甘えや怠惰だと言われ、躁状態は元気だから治ったと思われがちです
しかし双極症はほとんどの人は一生付き合う病気です
薬を飲みがら波を小さくする為に努力し続けています
波に翻弄される毎日がいかに辛いか想像できるでしょうか?

ピアサポーターの活動内容

次に活動内容ですが、4年前にピアサポーターになり、最初の年は昭和区の家族会、自立支援連絡協議会、社協さんの勉強会、医療福祉専門学校など沢山の活躍の場をいただきました
2年目は民生委員会の勉強会、医療福祉専門学校、昭和区の自立支援連絡協議会などで話させていただきました
3年目は医療福祉専門学校さん、社会福祉協議会主催の心の病気勉強会、自立支援連絡協議会で活動しましたが、1年目と比べたら活動の場は減ってきています
1年に1回でも体験談を話せることは私にとって喜びです。

生き甲斐

ピアサポーターとしてお話する事は私にとって今やライフワークです
少しでも双極症について知って欲しいし、今後の活動の場として健常者や支援者はもとより当事者さんにもっと話しをしたいです
何故なら私は私のようなのは頭がおかしいと孤独だったからです
そのような方々は沢山いると思うのです
そのような当事者さんに、あなただけじゃないよ、みんな同じだよと、同じように苦しんでる。だけどピアサポーターなど復職だけでなく違う道もあるよと示していきたいのです
そして精神障害者の孤独をなくすお茶会で毎日のdiscord、月1のリアルお茶会、月1のZOOMでお茶会、年に2度のイベントなどありとあらゆる手を使って1人でも孤独をなくしたいと思っています。2024年NPOに申請しました


近況

2023年のお正月、ついに縁を切られていた息子一家に会えました
感動でした。涙の再会でした。
これもピアサポーターや当事者会など一生懸命やったのが認めて貰えたからだと思います。
またB型作業所という障害者向け作業所で在宅でデータ入力のお仕事もできるようになりました
1番症状が悪かった時、「例えば激そう状態で赤信号をバンザイして私は死なない!と渡ったり、完全に鬱になり寝込んで引きこもりだった時」から考えたら想像もしなかったくらいよくなりました
何度も死のうとして失敗し、生き延びたのはピアサポーターとして体験談をお伝えしていく使命があったからなのかもと思います。
乗り越えていなかったら話せない話もありましたから、あぁ、私は過去を乗り越えたんだなとも思います

昨年父を看取りました
父の死に顔は笑顔でした
息子と仲直りし、私は寛解しピアサポーターとして頑張ってる
きっと安心して逝ったのだと思います

これからもピアの活動を継続していき、自分の人生をより深めながらピアサポーターと当事者会の理事長の活動をしていきたいと思います。

最後に

今までで1番嬉しかった言葉は
40年付き合ってる親友に言われた

あんたが病気だろうが関係ない
あんたはあんた
ずっと親友だよ

でした。

長文を読んでくださりありがとうございました

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