「八見橋」−江戸の”隣人を愛する”システム−『江戸名所図会』
いよいよ今年の大河ドラマ『どうする家康』が始まりましたね。
脚本があの『リーガルハイ』を書いた古沢良太さんですので非常に楽しみです。
第1回では騎馬の場面のCGの多さがこれまでの大河ドラマと異質な点だと感じました。
割とコミカルに描かれていて、合戦の迫真さと緊迫というよりも家康の人柄を誇張した描写にスポットが当てられているのでしょう。
これまでの大河ドラマのように、「第1回は幼少期」というお決まりの展開を最近はぶち壊しにきていますね。
展開の早さに驚きましたが、これからの成り行きが非常に楽しみです。
昨年の『鎌倉殿の13人』をやっとこの前録画を見終わって、私にも現役武衛卒業の時が来ました。
1年間義時を追いかけて、濃密な日曜夜を過ごせたと胸が熱いです。
まだ総集編を全て見ていないのでしっかり振り返ろうと思います。
そんな大河ドラマで月曜日から逃避してる今日も『江戸名所図会』。
「八見橋」という橋です。
この名前の橋はお初かもしれません。
日本橋川ともう一つの川が交差するところに四つの橋が向かい合っていますが、このうちのどれかです。
さあ、詞書を読んでみましょう。
「八見橋
一石はしの異名
なり此橋より
顧望これは
常盤橋
銭瓶橋
道三橋
呉服橋
日本橋
江戸橋
鍛冶橋
ことごとくみ○
一石橋を加えて
八見はしとは云ふ
日本橋と江戸橋
の図は次に○を
以てここに省く」
ということで八見橋は一石橋のことであるらしい。
日本橋を見たときに幾度となくおさらいした地図ですね。
上に列挙された橋の中でも現存するものは常盤橋・日本橋・江戸橋あたりですね。
『江戸名所図会』の挿絵の一石橋は左の丁に描かれていますね。
本文には上に列挙された七つの橋に一石橋を加えて八つの橋としていて、それらを一挙に一望できるため、一石橋は八見橋と言われているそう。
ちなみにこの一石橋の名前の由来が興味深いものでした。
一石橋の南北に金座の後藤庄三郎、呉服所の後藤縫殿助という両家の邸宅があったそう。
その二つの後藤の家の音から、五斗・五斗という秀句があったことにより、五斗と五斗で一石となったそう。
そんな言葉遊びから生まれた名前だったのですね。
遊歴雑記にもこの橋の名前の由来が記されているみたいですが、少し違うようですね。
永楽銭の通用が禁止された時というと、、、。
永楽通宝も金属の質によって時代で使い分けられているのでこの時代のエピソードかは定かではありませんが、1608年時点の話だとしたら、五斗・五斗の由来よりもはるか前に存在していたということなのでしょう。
一石橋が八見の橋の中でもどのような役割を持つ橋であったかがわかる記載がありました。
無人迷子センターのように、「しらする方」と「たつぬる方」の両方が合致するように掲示ができる仕組みになっていたのですね。
確か、そのような石標は浅草にもあったという話を聞いたことがあります。浅草寺があったため、その繁華街ぶりから多くの人が集まり、多くの人同士がはぐれていったと言われています。
ここもまた、日本橋の隣ということで往来の多さから人々が離れていくことも多かったのでしょう。
それによって西河岸町の家主たちには迷子の保護義務があったそう。
迷子になった子供たちでも親元に帰られるように、そして独りで死んでいくことがないように福祉体制がある程度は整備されていたことがわかります。
江戸時代って意外と発展途上なイメージがありますが、そんなことなくて、地域のつながりが非常に強く、江戸に住む人々を赤の他人として見逃すことはしまいとしたシステムが確立し始めていたのですね。
今日はここまで!
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