「柳しま」−北斎の魂があるので今も残っている?!−『名所江戸百景』
今日はスポーツジムのバイトの店舗での初の日でした。8時間勤務で、掃除や入会対応といった仕事を研修で学んだことの実践をしました。
その後に1時間くらいトレーニングしてきたのでそれで普通に疲れました。笑
そんなトレーニングの疲れをチョコで癒している日も広重。今回は『名所江戸百景』の「柳しま」です。
◼️ファーストインプレッション
柳しまと聞いてピンとこないのが正直なところ。
奥に二つのコブの山、筑波山があるのがわかります。なので江戸の江東区界隈から茨城方面を眺めるような立ち位置であることもわかります。
手前の太鼓橋を渡った町が栄えている様子で描かれています。屋根船が2隻、川に浮かんでいますね。彼らはここから運ばれていくのでしょうか。それともここを目的として来たのでしょうか。
この一画の赤い塀の家屋は何だか武家屋敷ではなさそうな気がします。武家屋敷にしては警護が薄すぎる。
川を挟んだ向こう岸はこちら側の景色に比べて殺風景。荒野なのかな、まるで旅路ですね。
◼️柳島橋
題名の”柳しま”は実際にある柳島橋のことであるそう。
真ん中の赤ピンが柳島橋です。この橋を境に柳島村と亀戸村で別れたようです。左と右で別れたのですね。
全体の位置関係は上の地図の通りで、北西の方角にスカイツリーがあり南東に亀戸駅があります。
もっとズームすると、、
赤ピンが柳島橋なのは変わりませんが、横に並行する川が北十間川です。これは昨日、吾嬬神社のすぐ向いにあった川でしたね。それに流入する川が横十間川です。なので、絵の2隻の船が浮かんでいる川が横十間川、荒野に沿った川が北十間川です。
この柳島橋が当時から変わらず今も残っているというのはなんともロマンティックですね。
◼️妙見山法性寺
この絵の赤い塀を持つ家屋が妙見山法性寺であるそう。これも現存しているのでちゃんとHPがありました。
しかもあの北斎との関係があるらしい!。
江戸時代に浮世絵師として活躍した葛飾北斎は、葛飾の本所の生まれであったため「葛飾」と名乗り、「北斎辰政(ときまさ)」と改名したのは「開運北辰妙見大菩薩」を信仰していたからと言われています。
北斎は幾度となく改名をしているので忘れがちですが、「辰政」と号した時にこの法性寺の大菩薩を信仰していたらしいです。
師匠に破門にされ、生活に窮した北斎は、一時、絵筆を折ろうとまでします。
しかし、「柳嶋の妙見さま」へ21日間お参りし、満願の日の帰り道に落雷に遭って失神。
その後、めきめきと売れ出して有名になり、数々の名画を残しました。
師匠に破門されたというと、青年期頃でしょうか。絵を描けなくて困窮した時、ここの妙見さまに21日間お参りし、帰り道に落雷に遭って失神してからメキメキ売れていったそう。
伝説みたいな話。でも本当にありそうですね。そんなゆかりのある柳島橋周辺は当時、浮世絵で描かれがちでした。
◼️他の柳島橋周辺を描いた浮世絵
歌川広重の『東都名所』「 柳嶋妙見堂」
これは『名所江戸百景』の絵の北十間川の向こう岸から描いている絵でしょう。正面に妙見山法性寺が描かれいます。人々が多く、にぎやいでいますね。でも、赤い塀がある様子はなく、塀として木の束が建てられています。
歌川広重の『江戸名勝図絵』「 柳嶋妙見」です。
この絵では川は描かれず、法性寺の境内が描かれていますね。鳥居が二つ連なっているのは初知りでした。
広重の絵ばかり紹介しましたが、もっとちゃんと探せば北斎が描いたものもありそう。
ちょっとそこまでの体力は残っておりません。笑
今回はこの絵の印象と、柳島橋、妙見山法性寺について、そしてこの周辺を描いた他の浮世絵について見ていきました。
今日はここまで!
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