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鬼女見習い、会議室で踊る

文/構成:ヤマ文明


私の会社のデスクは、会議室に近い。同僚と相手先の会話が割とはっきり聞こえる場所だ。

「それはしないって、前月時点でもう何度もお約束いただきましたよね」
「…ですので、今の言葉はきちんと訂正いただかないと。…ありがとうございます、こちらの内容で進めさせていただきます…」

相手の言動の間違いを指摘し、返す刃でちゃんと諌める。
こういう「怒り筋」がちゃんと鍛えられている人を見ると、すごいなあ、と思ってしまう。サーカスで空中ブランコのち、火のついた輪にバク転からの空中スピンを見せられている気分になる。

私は、そんなふうに怒れない人間だ。

正確には、怒りの語彙力というか、センスがない。どういうふうに怒りを表せばいいのか考えるのに時間がかかって、いつもまるでわからない。その場では飲みこんでいる(つもり)だが、溜め込んだ怒りは不安として、結局いろんな場面に滲み出てしまうのだ。

なので、滲み出す前にさっぱりと怒りを処理する必要がある。そんなときは他人の怒りを金を払って観にいくようにしている。向かうのは、感情のテーマパーク、能楽堂だ。


能の舞台の上にはたくさんの怒れる人々が出てくる。恋人に浮気された女性、人さらいに子供を誘拐された親、恥ずかしい罪悪感を暴かれた老人…怒りの原因は軽いもの、重いものまでさまざまだが、能は地域伝承や史実の人物を扱うことが多いため、これらの怒りにはいつも臨場感がある。

観劇する私たちは、遠いむかしの誰かの怒り語りを辿っていき、1.5時間の間、どこかで確かにあったリアルな怒りに皆んなで乗っかり、ジェットコースター的に追体験できるのだ。

さらに、怒りに対しての演出の解像度が高いのも安心できるポイントだ。

例えば、彼らの表情、能面。
能といえば…で、裂け口に角を生やしたコワい面、「般若」が思いだされる人も多いかと思うが、この般若面にも、より弱い怒りを表す「生成」、より強く憤怒を表す「蛇」など、怒り度合いが少しずつ異なるバリエーション違いが存在し、「激昂」表現ひとつとっても、舞台上でどのくらい怒ればいいのかをデリケートに調整している。


そんな理想的な感情のテーマパーク、能だが、観に行く演目の中には「人間ってそんな怒りの表し方もできるの!?」と驚かされるものがある。

能の怒りは、その動作によく表れる。たとえば、美しい舞の中にも。
「班女」や「桜川」といった「四番目物」と呼ばれるジャンルでよくみられるのだが、怒りや悲しみといった感情が昂ると、能の登場人物はなぜか「舞」、踊りをはじめることがある。
大切な人に裏切られたと思ったとき、もう想い人が帰ってこないと知ったときにステップを踏みはじめるのだ。

現代人の感覚的には、舞う=喜びの表現で、怒りの表現には思えないので、ちょっとおかしい気もするが、実際に舞う側に立って、怒りの行き先を「肉体」と「心」とで分けて考えると、少し理解できる気もする。

能の舞は、正方形の紙の上でコンパスをくるくる回す軌跡に似ている。基本的に三間×三間の檜板の舞台の上で、人間が円弧や直線的な動きを描くことで構成されているシンプルなものだ。そういった踊りは、激情を込めても力が入りすぎるので、自分の肉体が風に揺れる葉っぱかなにかになったと思って、慣性や遠心力といった自然の振り付けに肉体を預ける方が美しく動ける。
そういった舞を続けるうちに、いつの間にか身体が心を置いていく錯覚を起こす。舞えば舞うほど、つらい心が追いつけないほどにずっと遠くへ離れられるような気がして、止め時が分からなくなるときすらある。
自分の拙い舞踏経験だけで捉らえることではないのかもしれないが、もしかしたら、怒りに対して心を囮に、身体で逃れる、「逃避」に近い行動なのかもしれない。

舞を尽くして、怒り感情がピークに達すると、どうなるのだろうか。
そんなとき、能の登場人物はさらに激しく舞うでも、大声をあげるでもなく、ただ静止する。
たとえば「道成寺」という演目では一人の少女が「般若」を超越した、憤怒の化身「真蛇」という姿になる過程を乱拍子という舞で描くが、その舞の中で何度も静止する。観客や他の演者がひしめき、身動きの音一つも許さない静かな中で1人、舞台上に突き刺さったみたいに直立して見せる。

この怒りのピークにきて静止状態にある心の動きを、おもちゃのコマに例えた表現があった。コマは緩やかに回るとき、ふらふらと大きく動くが、やがて完全に停止する。だが物凄い速さで回っていると、傍目には静止しているようにしか見えない。これと同じように、心が激しく動揺して動くとき、実際の状態はそうでなくても心は静止してみえてしまう、ということらしい。

一見安定してそうなこの"静止"だが、復帰するにはなかなか難しそうな状態に見える。いきなり心の怒りを堰き止めて落ち着かせようとすると決壊してしまうし、自分の中にうごめく怒りや悲しみの感情をちょっとずつ、ちょっとずつ味わい尽くし、スピードを少しずつ落としていけるまで、「道成寺」の彼女はきっと一歩も踏み出せないでいるのかもしれない。


舞台上では最後、どんなに怒れる鬼も女も、最後は自分の中に溜まった怒りを舞い尽くし、語り尽くし、納得ののちに帰っていく。
終演後に客席に残された観客も満足げに、ちょっと前まで舞台上に展開されていた「誘拐された子供と会えない母」への共感より先に、「良かったよね〜」とか言いながら出口に向かう。能楽堂から出てくるその顔は実にさっぱりした、お風呂上がりのような晴れ顔ばかりで、やはり不思議な施設だな、と思う。

こうして毎度能の世界の中の怒れる人々と出会って発見できるのは、じっくりとした怒りを見ると、周りの怒りも浄化されること。
そして能に演じられるほどの昔から、人間は怒りにちゃんと翻弄されて生きていて、怒りを表現することがちゃんとわかりにくくて、ちゃんとへたっぴで、1つの「怒り」も祓うのに1.5時間もかかるのだということだ。

自分が怒りを溜め込みがちなのもあながち間違いではなくて、当たり前なのかもしれない。そして逆にいえば、1.5時間かければ、鬼の抱く怒りでさえも収めることができるということでもある。こんな発見に安心している私のような人間は、やはり会議中に生まれた怒りをその場でアクロバティックに扱うことができるほど、センスを磨く技術も時間も足りないが、鬼女から見習うことはたくさんある。
怒り道初心者の私はまずは「生成」から。会議室で怒りの舞を舞うところから始めよう。

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