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152 たまには政治の話しを(アメリカ大統領選、リベラル、能登半島地震)

「吐き気がするほどロマンチックだぜ」という思考を持っている私には、ハリス候補の敗北は一言で言えます。つまり「リベラル、民主主義が権威になったから」。以前のnoteで権威は枠にはめるから、零れ落ちたものから攻撃されるという趣旨を書きました。私はリベラルや民主主義も同じと考えていて。つまり「権威になったら攻撃される」という思考を徹底するなら、リベラル/民主主義も例外にしてはいけないということで。
 荻上チキは自分の番組「Session」で散々ドナルド・トランプ個人とその政治理念、思想を問題にしてるけど、それでもなぜトランプ氏が大統領になれたのか、その理由を考察することをしない。ただ多様性が大事、家父長制は悪という論陣を張り、今回の大統領選と同じように、番組で主張の違う他者と話し合うことをしない。それは自分たちの思想/主張が正義でありスタンダードにしなければならないという意味で、権威主義になってると私は思うのです。
 というより記事の見出ししてからが、ニュースの仮面をかぶった釣り記事の典型例と思えるのが多々あって。「現在地」とか「息ぴったり」とか「納得の理由」、「厳冬期」などなど、事実だけを伝えていない見出しの記事は全て記者のバイアスがあると考えられる。つまり取材対象におもねった宣伝記事/提灯記事と思い、読む必要がなければ読まずに済まします。
 最近では「“強行採決”できず“異例の国会”へ…自民・過半数割れで“譲歩”予算委員長は立憲へ」が傑作だった。確認のため読んだけど、まさに権力を持っている現政権を権威に仕立てようとする記事と思いました。つまり左も右も権威ゲームの土俵で戦ってして、本来はプレイヤーの一翼である有権者をギャラリーにさせているということ。
 しかし民主主義/リベラル/デモクラシーはそもそも王政を打倒するロックではなかったか? ならば権威になりたいという権威主義より、運動体としての側面を強調した方がいいのではないか? つまり電波や誌面などを使って意見を表明するより、現場から現状を報告すること。今回のハリス候補の敗北も白人の苦境という現場を見ず、多様性の尊重という主義・思想に殉じた結果と捉えれば辻褄は合うかと。
 特にアメリカは人種(民族)のるつぼで州ごとに自治があるから、アメリカ人と共通認識するのはそもそも難しいと察する。分断は日本にも貧富という形であり、日本のリベラルがマイノリティの擁護に偏り、ボリュームゾーンである庶民/一般市民の声を拾ったり代弁してこなかったから、有権者の支持を得られなくなったと思う。
 それは実は能登も同じで、論理的に考えれば能登の現在と未来は日本の地方都市の将来とその先の姿と思うけど、そこを丹念に追ってる識者はどうも日本にはいない。もちろん能登は意外に広いから全体を把握するのは無理だけど、被害に遭ったのは一般市民だから一か所も訪問せずに能登を語るのは止めた方がいいと、何回か行ってる私が威張って言うのでした。(大塩高志)

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