公文式の話
自分が外国人と初めて話したのは10歳の時だと思います。それまでも外国人とすれ違ったりテレビで見たりしたことはあるはずですが、しっかり外国人を外国人と認識して話したのはたぶん10歳です。
自分は公文式という、まあみんなも知っているんじゃないかと思われる塾の教室に通っていたんですが、ロベルトはそこの英語の先生でした。
みなさんご存知のように、公文式は18世紀の三角貿易のころから何隻か奴隷船を所有していて、他国に攻め入っては外国人教師を奴隷船で連れてくるという事を繰り返していました。
何せ公文式は鎌倉幕府の公文所が制定した非常に武家的な教室ですから、他国からの収奪など当たり前です。倭寇のほとんどは公文式だったんじゃないかと言われています。
ロベルトはスペイン系のイギリス人です。公文式の艦隊は塾の持つ艦隊の中ではそこそこ強いと言われていますが、「丸」のクロスレビューでは20点代であり、先進国で普通に戦略原潜も持っているイギリスの艦隊にはさすがにぜんぜん歯が立ちません。
なので公文は先進国から教師として外人を拉致してくるときには、スパイなど姑息な手段を使って連れてきます。公文のスパイは「公文公安」と言い、略して「クモコー」と呼ばれて恐れられています。公文式には算数・国語・英語の他に裏メニューとして諜報・用兵などのコースも用意されており、それらの修了者が公安になれます。
公公安がどのようにイギリスの若者を拉致するかと言うと、まず向こうのスポーツ新聞に「パチンコ必勝法販売、打ち子募集」という広告を頻繁に出します。
イーストロンドンのあたりなどにはパチンコ屋、スロ屋がたくさんありますし、最近ではアイルランドとかにもそこそこマルハンがあったりします。時間はいくらでもあるけれどもお金がない、まあそれこそトレインスポッティングみたいな若者たちがたくさん打ち子に応募してきます。
公公安はそこで打ち子セミナーを開いて、裏ROMなどの道具を若者に渡します。もうおわかりでしょうが、ロンドンにあるパチンコ屋はだいたい公文とつながっていて、裏ROMや体感機を使った時点で店員が取り押さえます。事前に公文式から情報を得ているので、取り押さえるのも簡単です。捕まえたらあとは恐喝して、日本に連れてくるだけです。奴隷船の中では、「KUMON」という単語以外を喋ることは許されず、あらゆる問いかけや命令には「KUMON」と大声で叫んで返事することになるそうです。自衛隊のレンジャー訓練で全部返事が「レンジャー」になるやつの公文版を想像してください。
ロベルトもこうして日本で働かされることになってしまいましたが、彼は優秀だったためか公文の中では比較的良い待遇を受けていました。どの公文の教室も2階は牢になっていますが、ロベルトはそこの牢名主に次ぐポストについており、畳も4枚くらいは積み上げて使っていたと聞きました。さらには時折外出することさえ許されており、土日はたまに駅前のマルハンで海物語を打っているロベルトを見かけました。ロベルトはそんなに背は高くなくて、白人にしては浅黒い方で髪は黒髪にパーマがかかっていたので、パチンコ屋で座っていても周囲のおじさんに溶け込みあまり違和感はありませんでした。
たいてい拉致されてきた教師は日本人に対して心を開かないので日本語もあまり得意ではないのですが、ロベルトはわりと日本語を使うことができました。そのせいか、拉致教師なのに教室の副主任に昇格しました。これは全国の公文で初だったようで、公文が月ごとに出している「コペル21」という雑誌にロベルトの記事が載っていました。自分はそれまでロベルトと話したことはありませんでしたが、記事を読んで「これって先生?」と話しかけ、それ以降よく話すようになりました。
ロベルトはロンドンで拉致されましたが、もともとマンチェスター出身だと話しました。早慶戦のことを慶応ではわざわざ慶早戦と呼ぶのと同じように、公文ではマンチェスターのことを「西洋の大阪」と呼ぶことになっていましたから、いちいち「西洋の大阪にいたころには…」「西洋の大阪ユナイテッドと西洋の大阪シティがあるけど自分はシティ派」などと話すことになり、言いづらそうでした。うっかりマンチェスターと言ってしまうと、どこから聞いているのか不思議ですが、公文憲兵(クモケン)が現れて殴られるのです。クモケンはクモコーになれなかった落ちこぼれなのに威張るのでみんなに嫌われていました。クモケンはいつも、「あんまり外人と仲良くするな」と自分に注意しましたが、殴られたロベルトはコンティニュー画面のガイルのように顔を腫らしながら悲しそうにそれを見るのでした。
クモケンがうるさいのであまりロベルトと親密には話さなくなりましたけれども、意外とロベルトはイギリスに帰りたいとかそういう雰囲気を出しませんでした。日本でもパチンコは打てるし、わりと生活に順応していたのか、とくに大きな不満はないように見えました。そういえば、ロベルトはほとんど家族の話をしませんでした。家出して西洋の大阪からロンドンに移ったようなことを言っていたので、うまくいっていなかったのかもしれません。
自分は公文のコースを終えたので卒業になりましたが、その後もたまに駅前でロベルトをみかけることはありました。いつもと変わらない様子でパチンコ屋の開店待ちをしているか、サンジェルマンのテラス席でアンパンを食べていました。その時は「イギリス人なのにフランスっぽい名前のパン屋でパン食うんだな」と思いましたが、当のロベルトはそんなことを気にする余裕はなかったのでしょう。一度、ゲオでロベルトを見たことがありますが、「ザ・ロック」のDVDを借りていたので、やっぱり脱出したいのか、と中学生ながらにその心中を想像し同情したこともあります。ただその時はコンエアーとかフェイス/オフも同時に借りていましたから、ロベルトは単にニコラスケイジが好きなだけかもしれません。
何年かして、みなさんもご存じのように、国連が日本に勧告を行って、公文式拉致の被害者を本国に送還する事業が始まりました。順番待ちはかなり長かったようですが、ロベルトも帰国が決定しました。帰国が決定してからも半年くらい手続きにかかりましたが、その間はもう公文で働かなくてよいことになったので、毎日サンジェルマンでロベルトを見かけるようになりました。公文式のウインドブレーカーを着たままアンパンとコーヒーで5時間は粘る彼に、「帰国は決定しているのに、ずいぶん時間がかかるんですね」と話しかけたところ、「イギリスに帰る前に沖縄に寄りたいと希望したんだけれども、政府が渋っている」と困った顔で答えました。なぜそんなに沖縄に寄りたいのかと聞くと、彼は「沖スロを打ってみたいから」と屈託なく笑いました。
そしてロベルトは、「いつお別れになるかわからないから、今日これをあげよう」と、金色のチップのようなものが入った透明なプラスチックのケースを自分に手渡しました。自分は最初それが何だかわかりませんでしたが、それは特殊景品でした。お金になるものを自分に渡していいのか聞くと、「イギリスのマルハンではそれが換金できないだろうから」と微笑みました。それが外国人流の「さよなら」だと気づくには、当時の自分はまだ若すぎました。
次の週に駅前のサンジェルマンを通りがかった時には、もう彼の姿はありませんでした。特殊景品は高校生では換金できず、やむなく家に置いておきました。大学生からは一人暮らしを始めましたが、20歳になって実家に帰り、久しぶりに景品を見つけた時にはすでにマルハンが潰れており、永遠に換金できなくなりました。
皮肉なもので、私は大学を卒業したあと試験に受かって、公文公安になりました。もちろん現在の法律下では手荒なことはできませんから、理知的な方法で外国人を公文に「リクルート」しています。でも、あの特殊景品は今も自宅のサイドボードに置いています。時折これを見るたびに、公文式の犯した罪と共に、ロベルトは沖縄に寄れたのか、そして今は西洋の大阪で元気に暮らしているのか、はたまた世界のどこかのマルハンで新台に並んでいるのか、そんな事にゆっくりと思いを巡らせるのです。
(完)
いつもありがとうございます。