おばあちゃんが死んだ
おばあちゃんが死んだ。
大谷地のおばあちゃんが死んだ。
大谷地というのは、札幌市の地名だ。
地下鉄東西線の駅にも大谷地というのがある。
僕は幼いころから、母方と父方の祖父母をそれぞれ地名をつけることで呼び分けていた。それで「大谷地のおばあちゃん」というわけだ。ちなみに父方の祖父母は「篠路のおじいちゃん・おばあちゃん」で、2人ともまだまだ元気だ。今回も会える時に会っておけってことで会いに行ったけれど、それについてはまた別の機会にでも話す。
幸せなことに、この年(今年24歳)になるまで、父方・母方の祖父母全員が健在だった。だが、その快挙に突如として終止符が打たれたのだった。まさか、4人の中でも一番若い大谷地のおばあちゃん(享年85歳)が一番最初に亡くなるだなんて、思ってもみなかった。
7月5日(水)夜。
母の名で着信が入っていた。
とても嫌な予感がした。
というのも、3日朝方におばあちゃんが救急車で運ばれたとの情報を、3日夕方に母から聞いていたからだ。
この日、九州各地で大雨となり、僕が住む椎葉村も例外ではなく、昼で仕事を切り上げて午後は休みとなったのだった。かねてより梅雨時の雨について心配されていたもんだから、心配させる時間をいたずらに長引かせるくらいなら、電話の1本も入れておこうとの思いで母に電話を掛けたのだった。
そうしたら、それどころではない状況を説明された。
早朝、救急隊員からの電話で母は目を覚まし、大谷地に駆け付け、病院からは出てきたけれど、あれやこれやと世話をしていたらしかった。ちょうど電話中におばあちゃんがトイレに行こうとしたため、電話はそこで切れた。もはや一人で立ち上がって、トイレに行くことなんてままならなかったはずなのに、いつもの癖で一人でやろうとする。だから周りはヒヤヒヤものだったのだ。おじいちゃんの声と、弱弱しいおばあちゃんの声が電話口から聞こえてきた。それが僕が最後に聞いたおばあちゃんの声だった。
たしかにおばあちゃんはここ数年弱っていた。
去年1年で3,4回転んで腕を怪我したなんてことも聞いてはいた。糖尿病を持っていたり、肺が弱くて呼吸が浅くなったりと、多少なりとも病気はあった。でも、病気そのものというより、精神的に参っているようで、その様子は電話でもうかがえた。電話を掛けると、口癖のように「お母さんにはいつもお世話になっています」と僕に言うようになったのは、いつからだったろうか。
だけど、どれも通院で済む程度のものだったし、施設に入居するなんてこともなかった。父も母もその判断はしなかった。そうしなくとも、充分だ、問題ないと感じていたからだと思う。
だから、4日(火)に元々予定されていた通院のタイミングで即入院と決まり、なんなら、危ない状況と診断されたのには親族一同心底驚いたのだった。そこからの目まぐるしい状態の変化については、なんとなく聞いたもののあまりはっきりとは覚えていない。そのままあれよあれよと悪化してしまったのだろう、5日夜にかけなおした電話で、父から危篤と知らされたのだ。
…こういうことは本当にあるらしい。
5日(水)の勤務後のことだ、
僕は普段から、21時まで図書館が開館している曜日については、宮崎初心者として宮崎のことを知るべく、宮崎日日新聞を読むように心がけている。
この日も例によって、新聞を読んでいたのだった。
そうすると、普段はたいして目にも止まらない、最寄り空港における航空便の空席状況についての欄がやけに目に入ったのだった。そして、その時、とても嫌な感じがした。言葉で伝えるにはあまりに感覚的なもので、一瞬で、表現しようのない微かなものであった(しかしはっきりと)が、とにかくとても嫌な感じがした。
果たして、その日の夜に危篤を知らされた。
自分でも悪い知らせが当たってしまったことに驚いたが、ただただ呆然としてしまった。そうするしかなかった。危篤の知らせを聞いてすぐにでも駆け付けたかったが、父曰く、もう酸素マスクを着けて話すことができないとのことだった。のちに聞いたが、関東から駆け付けた叔母も最後に言葉を交わすことはできなかったらしい。
5日夜はただただ呆然としていた。
ご飯を食べるのも忘れて、ぼーっとしていた。
そして後悔の念が込み上げてきた。
おばあちゃんにとって一人孫であった僕は、とにかく小さい時から愛情を注いでもらったのだ。それなのに、いつも何かしてもらうばかりで、何もお返しできていなかった。中学生や高校生になってからは、さらに形式的にご挨拶に伺うばかりになっていた。何も返せなかった。
そればかりか、おばあちゃんのことも断片的に伝え聞いただけで、よく知らないというのが本当のところだ。別に孫が知らなくてよいこともあるだろうが、仮にも今僕は高齢者の方々からお話を伺って、それをもとに昔を懐かしんでもらったり、だれでも見れるようにすることで、どこか自分と重ね合わせてもらえれば、なんてことを考えて仕事をしているのだ。自分の身内の話もろくに知らない人間にそのような任務が務まるだろうか。後悔の念しかない。もっといろんな話をしたかった。いくらでもチャンスはあったはずだ。高校時代、大会や練習の度に厚別陸上競技場へ行っていたではないか。いつも大谷地駅で降りて、キャポの中を通っていたではないか。帰りに寄ることぐらいできただろう。何をしていたんだ俺は。
大学時代だって、コロナがあったとはいえ、もっと頻繁に電話することぐらいできただろう。なぜしなかったんだ、俺よ。
もう遅いのだ。悔いても何も戻らない。その絶望的な現実だけが目の前に横たわる。馬鹿じゃねえか、本当に。
*
聞いた感じの状態からして、遅かれ早かれその時が来るのは避けられないようであった。5日は、ただただボーっとして、後悔の念に涙があふれ、気が付いたら21時を過ぎていた。また状況が分かり次第連絡するとの父の連絡をずっと待っていたいような、待ちたくないようなそんな気分だった。やることも手につかず、その日は布団に入った。
6日(木)朝。
遅く寝たせいで、早起きとはいかなかった。
起きた時、すでに父からの着信が2件入っていた。
危篤を聞いた時よりは落ち着いていた。
スマホを耳に当て、父からおばあちゃんの他界を聞く。
午前5時半ごろに旅立ったそうだ。
変に落ち着き払って、今日中に、遅くとも明日にはそちらへ向かう旨を伝えた。前日、いろいろとシミュレーションをしたのだ。いかんせん、椎葉ー札幌は遠い。家を出る時間を間違えれば、変なところで待ちぼうけを食らいかねないのだ。
そして、札幌への道のりは未知の世界だった。
椎葉ー東京は去年の9月、そして今年の3月と2度経験があったが、椎葉ー札幌は未知の経験だった。熊本空港に行くことさえ、初めてであった。
当初親には心配され、無理に来なくてもいいのではとの話もあった。だが、そんな選択肢はあるはずもなく、すぐに向かうと伝えた。すぐに向かってもすぐではないのがこの場所なのだ。椎葉に来ると決めた時点で、いつかはこういう場面に遭遇することもあるだろうと、ある種の覚悟はしていたつもりだったが、来て3か月でそうなるとは思っていなかった。
心の整理がつかぬまま、とりあえず出勤し、札幌へ帰る旨を伝え、すぐ出てきた。家に帰って、飛行機を予約。急いで荷造りをして、飛行機に間に合うように家を出た。半分以上が初めての道のりで、大した下調べもせずに運転するのは気が引けたが、あーだこーだ言っている時間的余裕はなかった。
案外、何とかなるものだ。
危なっかしい場面は、まあ、少しあったが、無事についた。
格安航空を調べる余裕はなく、ANAでまず羽田へ。そして、何年ぶりだよという乗り継ぎで新千歳へと向かったのだった。
家に着いたのは19時過ぎだったろうか。
10時過ぎに椎葉を出て、実に9時間。
これを近いとみるか、遠いとみるかは議論が分かれそうだが、とにかく1日で札幌へ帰った。
移動の途中、葬儀の日取りが日・月になったと聞かされた。
木曜夜に札幌入りして、金曜・土曜は準備をしながらゆっくり過ごすこととした。そのなかで、篠路にも行ってきたのだった。
葬儀も家族葬ということで、本当に身内中の身内しか呼ばないという形で行われることになった。中学時代にクラスメイトの母親のお通夜に行ったっきりの僕は、気持ち的には助かった。なにせ、まだ喪服さえ持っていなかったのだから。用意が悪いと言われればそうなのだが、大学生時代に買っておこうという頭にはならなかった。まだまだ使う場面はないだろうと思っていたから。そんな態度が災いしたのか、どういう因果かわからないが、今回使うことになった数珠は、何を隠そうおばあちゃんから贈られたものだった。
日曜のお通夜は17時開始だった。
僕は前々から決まっていたどうしても外せないオンラインでの用事があり、それをこなしてから遅れていくことになっていた。なんとなくやるせない気持ちになっていたが、時間が押してしまい、その感情に拍車を掛けたのは言うまでもない。九州から駆け付けて、時間に間に合わないという情けなさ。
おじいちゃん、叔父叔母夫婦、父母、そして亡きおばあちゃんと会った。
おばあちゃんは、数年前に若返ったかのような綺麗な顔でそこにいた。でも、作られた綺麗さであるという違和感だろうか、それとも故人であるという紛れもない事実による違和感だろうか、もうあの世にいるというれっきとした事実を突きつけられる対面であった。
遺影は、これぞ大谷地のおばあちゃんだよねという表情をしていた。いつまでもその時のおばあちゃんのつもりでいた自分が恥ずかしいやら情けないやら、嫌になる。でも、確かに一番よく知っているおばあちゃんだった。晩年となったここ数年、自分が年を取っていることに無自覚なように、おばあちゃんは想像以上に体を蝕まれていたのかもしれない。
月曜日。つまり、昨日。
おばあちゃんと会った最後の日だ。
叔母と母が、いろんな言葉をかけながら泣きじゃくっている様子に、自分も涙が止まらなくなってしまった。あの場にいたすべての人にとって、突然の別れだったのだと感じた。そしてあまりに突然だったからこそ、皆何かしらの後悔の念を抱いていたのだと思う。違う類いのことだと言われればそうなのだが、危篤との報に接してから月曜日に至るまで何度もイチローの引退試合の言葉が思い出されては唇をかんだ。
焼き場(火葬場)には初めて行った。
都会だからなのか、現代の一般的な手法なのかわからないが、あまりにシステマチックに事が運ぶのに驚いた。焼き場に送られるあの扉、ホテルのエレベーターを目にしているかのようだった。そのあっさりさ加減によくわからない涙が出かけた。
送り込まれたら、お骨が収骨室に届くまで待機だという。
様々な遺族がロビーに会していたが、うちの遺族ほど沈痛さにあふれている様子が見られなかった気がするのは、後悔の有無の差だったのだろうか。
小さい子どもや高校生らしい子も結構いた。この年まで葬式を経験することなく、人の死と真正面から向き合う機会に乏しかったことにいまさらながら気づかされ、何とも言えない気持ちになった。
おばあちゃんのお骨と対面した。ただ、促されるがままにせわしなく進んだ。変な気分だった。儀式ばかりが進んでいった。
斎場へ戻って、儀式の続きが行われ、すべてが終わった。
なんか、あっけなかった。
もっと実感がわいて、もっと向きあえて、もっといろんな感情がうごめいたのちに、落ち着くものだと思っていた。
でも、実際には、ただただせわしなく事が進んでしまったという印象だ。
見方によっては、あれぐらいはっきりとあっさりとしたペースで進む方が、次を見据えることができていいのかもしれない。でも性に合わない感じがした。
そして僕は昨日のうちに、成田に飛び、空港近くで1泊して今朝(11日)熊本空港へ飛んでお昼過ぎに椎葉へ舞い戻ってきたのだ。
お骨になってしまったのがほんの昨日のことだなんて信じられない。
ちょっと、僕にはおばあちゃんの死と向き合うのにもう少し時間がないとダメかもしれない。そう思って、この文章を書き始めた。
ここからはおばあちゃんとの思い出を思い出せる限り書いていきたい。思い出した順に書く。書きたい順に書く。短編集のように読んでもらえたら嬉しい。
それが僕なりのおばあちゃんとのお別れの仕方であり、自分のペースなのだ。そして誰のためでもない、自分のために書くのである。以下もお付き合いいただければ幸いである。
ヤクルトに始まる1日
小学生時代、毎年夏休みに大谷地と篠路に泊まりに行くのが定番だった。父は仕事で行けないことが多かったから、たいていは母と2人で行くことになっていた。それも関係しているだろう、10日~3週間ほど過ごす期間のうち9割がたは大谷地で過ごしていた。数日だけ篠路にお邪魔して、泊まっていくというような形が毎年のお決まりだった。
そんな大谷地滞在中には、毎朝必ずヤクルトを1本もらっていた。顔を洗って、うがいをして、着替えたら1本。今思うと、なぜヤクルトだったのかはよくわからない。腸にいいからだったのだろうか。でも、朝からヤクルトのような甘い飲料を飲ませるというのを気にしてもおかしくない人だったとも思うのだ。そのあたりは定かではない。いずれにしろ、僕の小学生時代の夏休みはヤクルトから始まっていた。
一度、何年生のときか忘れたが、母に「おばあちゃん家みたいな生活をする!」と言って、ヤクルトを買ってきてもらったことがある。少しの間は続けたと思うが、長続きはしなかった。やはりおばあちゃん家でやるからこそ、意味があったに違いない。
バケツのぬか漬け
「おばあちゃん家みたいな生活をする!」キャンペーンは案外しつこくて、ぬか漬けにも手を出したことがある。いや、母に出してもらったのだ。
詳しくは、以前書いた以下の記事にまとめている。
きゅうりのぬか漬けは、毎晩食卓に並んだ。大根やニンジンもあったと思うが、やっぱりきゅうりが一番おいしかった。人参だっけ、スイカだかメロンだかの皮の部分だったかをビールに漬けた(作り方はよくわからない)ビール漬けなるものもごちそうになったことがある。とにかくどれもおいしかった。小さいころには、ぬか床のお世話をお手伝いしたことがある。青い、いや紺色というべきか、モノトーンのバケツがおばあちゃんのぬか床だった。ある時、『ためしてガッテン!』であまり混ぜない方がいいというような特集をしていて、半信半疑で混ぜる回数を減らしたりもしていた。ぬか漬けはおばあちゃんの代名詞といえる存在だった。
ちなみに余談だが、お通夜の食事の席で、父が急に「noteにぬか漬けのこと書いてたよな?」と言い出してびっくりした。いつの間にかnoteを読まれていた。別に見られてもいいのはいいのだが、言っておいてほしいな。気が抜けないではないか。
とにかくこだわりの料理の数々
一言で表すならば、おばあちゃんは料理の人だったと言って差し支えないだろう。とにかくいろんな料理をご馳走になったが、どれも本当に美味しかった。サラダ一つとっても、水菜を入れたり海苔を散らしてみたり、オリーブオイルでドレッシングを作ってみたりと、そこかしこに工夫が施されているのだった。
僕と母(時に父も)のためにと連日張り切って、たくさんのご馳走をしてくれた。お世辞でも何でもない、本当にたくさんのご馳走を、だ。酢の物やお漬物、お豆さんの煮たやつ。いわゆる主菜と呼ばれるメインディッシュよりも、数々の副菜におばあちゃんらしさがあふれていたような気がする。
その意味で台所は聖地でもあり、思い出の場所でもある。聖地といったって、入っちゃいけないなんてことはなくて、よく手伝いもさせてもらった。食器棚に映る姿を見て、おばあちゃんと背比べもした。
シューマイ
ある時、ギョーザよりも簡単に作れるということで、シューマイを作るのをお手伝いした。皮を包むのをお手伝いした。タネを混ぜるところから手伝い始めたのだったか、それらをスプーンですくって一つ一つ作っていった記憶が残っている。結局、なかなか家で再現することはなかったが、思い出の一つとして刻まれている。
ヨーグルト
ヨーグルトも作っていた。カスピ海ヨーグルトだったかな。瓶に入れて、時間を計って温めていた。既製品ではなかなか味わえないとろみやちょっとした酸味があって、大谷地で食べるヨーグルトの味として記憶に残っている。なぜかキウイを入れて食べることが多かった気がしている。
おせち料理
お正月といえば、おせち料理。重箱に入れなくとも、お正月に食べるものとして定番だ。おばあちゃんは、その多くを毎年手作りしていた。
栗きんとん、田作り、黒豆…。どれも手作り。手間暇かけて作られた料理はどれも上品な味わいだった。黒豆の煮たやつの甘すぎないやさしいあの感じは、既製品ではとてもじゃないが味わえないだろう。唯一無二の味だった。
正月に限ってはいないだろうが、茶碗蒸しもよく作ってくれた。銀杏が必ず入っていたっけ。
小さいころ、銀杏がそこまで好きではなかった時がある。その時に、僕が先に銀杏ばかりバクバク食べるもんだから、銀杏のおかわりをしてくれたことがあった。当然それも食べていた。
プリン
手作りのプリンを何度もご馳走になった。まだ温かさの残るプリン。プッチンプリンのような俗っぽいプリンももちろん好きだけど、おばあちゃんの手作りプリンのカラメルのやさしい甘さは、よそのプリンで味わえるものじゃない。毎年、初めて大谷地を訪問したタイミングでいただいていた印象が強い。挨拶もそこそこにソファでプリンを食べていたように思う。
トマト
小さいころ、トマトが食べられなかった。でもそれは食わず嫌いだったのだ。紋別のネーフとかいうレストランで食べたのをきっかけに、美味しく食べられるようになった。
もしかしたら、親にも言っていないかもしれないことを初めて言おう。ネーフで食べたのは、おばあちゃんの存在があってこそなのだ。しゃれたレストランで、小さく四角い形にカットされたトマトがおそらくサラダのなかに入っていたのだった。幼い当時の僕には、それがなんだかわからなかった。多分、おじいちゃん・おばあちゃんがいない場だったら、親に聞いて確認してもらって、トマトという答えを聞いて食べていなかったように思う。でも、その時は、おばあちゃんがいることで少し背伸びしたのかもしれない。あるいは、食べないでおばあちゃんに何か言われることを避けたかったのかもしれない。そこら辺の微妙な心理はさすがに正確には覚えていないが、その時ばかりは食べてから「これ何?」と聞いたのだった。そしてそれがトマトだというシェフの返事があり、それは率直に美味しかった。晴れてトマトを食べられるようになった日だ。
以来、大谷地に行ったときには必ずトマトがついてきた。おばあちゃんの部屋のベッドの奥、窓際の日の当たらないところに箱詰めでトマトが置いてあるのだった。僕は時たまそれを取りに行くお手伝いもしていた。
そうした意味で、トマトは特別な野菜なのだ。
トウキビ
北海道ではトウモロコシのことをトウキビという。北海道だけかと思っていたら、椎葉でもトウキビというらしく、急に親近感が湧いたものだ。
おばあちゃんは、買い物も上手だった。
うろ覚えだが、一緒にスーパーに買い物に出かけたときのこと。陳列されているトウキビにはいいやつがなかったようで、店員さんに新しいのを出してほしいと頼むと、すぐに奥から新しいのが出てきたのだ。皮つきとかひげ付きとかその辺のことで頼んだのだったかもしれないが、店員さんにすぐに頼むことができる、しかもそれで自分の思う商品を手に入れていたのだから、それはれっきとした商売人の姿であった。申し訳ないが母にはまねのできない芸当で、スゲーとただただ感激していた。
梅シロップ
梅シロップを水で割ったり、ソーダ割りで飲ませてもらっていた。夏場の暑いとき、風呂上り、寝る前。あれがとにかくうまいんだ。あれはどうやって作っていたのだろうか?既製品ではなかったと思うのだが。正直そこまで梅シロップについて聞くことはしていなかったから、定かでない。また飲みたいなと思って、2月に横浜の赤レンガ倉庫で梅シロップ見つけて買ったのを今思い出した。いい季節になった。飲んでみようじゃないか。
料理に関しては、エピソードに事欠かない。きっと、ここに書き連ねたもの以外にもまだまだ多くの逸話が残っているはずだ。少しずつでも思い出したら書き足していきたい。
逆さになった12月12日
おばあちゃんの部屋の入口すぐそばの、掲示板のようなコルクボードに、ピンで「12月12日」と書かれた小さいメモが、逆さに留められていることがあった。何も知らない僕は一度、勝手に直した。その数日後、また逆さになっていると思って直そうとしたら、それを見たおばあちゃんが防災になるとかでやっていると教えてくれた。テレビか何かで見てやっていたのか、昔からの言い伝えなのかは定かでない。ちょっと調べてみた感じだけでも、諸説あるようだ。
特別何か信心深いといったようなことはないはずだが、とても印象に残っている日常のささやかな出来事の一つだ。
親族一誰よりも野球に詳しいハム党
僕が鷹党なのは言うまでもないだろうが、おばあちゃんはハム党だった。ヒルマンさんのころのデザインで、応援バルーンみたいなのを持っていたのを見せてもらったことがある。まだ僕が野球に興味を持つ前に、日ハムの北海道移転間もないころだろうか、札幌ドームに行ったことがあるらしかった。だけど、階段が急でもう行きたくないとこぼしてもいた。もうちょい早く新球場ができていたら、一緒に行きたかったものだ。
「こずゑちゃんのラジオ」を聞いていたからだろう、なんでそれ知っているの?というような情報を知っていることもしばしばだった。
当然、パリーグでホークスとファイターズが対戦することもあるため、ホークスの選手についても結構詳しかった。対等に野球の話ができる数少ない存在だった。
僕が鷹党になってからは、ホークスの状態をいつも気にかけてくれるようになり、そんな心づかいがとても嬉しかった。おばあちゃんのお気に入りはFの上沢投手だ。まだ、今のようなチームの大黒柱になる前に言っていたから、先見の明もある筋金入りの野球ファンだ。
思い返せば、田中将大VS斎藤佑樹という球史に残る伝説の試合も、大谷地で見ていた。野球の話はいつも盛り上がった。僕の母校が甲子園に出場した時も、とても喜んでくれた。
今年のペナントレースはおばあちゃんに微笑むのか、それとも――。
仲間たちに印象付けた「野球観戦」
留萌に住んでいるときに、家に遊びに来てくれたことがある。
その時、僕は少年野球チームに所属していたため、おじいちゃん・おばあちゃんが来てくれた日も練習が入っていた。
練習前に家でお話ししたあと、先に僕は小学校のグラウンドへ。
孫が野球をしているところを見たいということで、あとから見に来てくれることになった。
事前におばあちゃんが来ることをチームメイトたちに伝えたのかどうかは覚えていない。でも、強い西陽を避けるべく、日傘を差してファールゾーンにたたずむ立ち姿は、手前味噌だが品があった。だから、誰だ誰だ?と皆がざわつき始めたのを覚えている。そんなおばあちゃんを持てたことは誇りだ。
練習を手伝ってくれていた友人の父親も、あとから「すごい上品な方で...」と感想を話していた。それほど印象的だったのだろう。残念ながら、僕はバッティング練習で快音を披露というわけにはいかなかったが、チームにいつもと違う緊張感を生み出したおばあちゃんは、何か持っている人だった。
驚いたのが、大学入学前の2019年3月のことだ。久しぶりに当時チームメイトだった友人たちで集まる機会があり、その場で一人の友人(男子に交じって白球を追っかけていた女子)が、僕に「おばあちゃんまだ元気にしてる?」と聞いてきたのだ。もう8年とか前の話だ。しかもたった1度の邂逅。それだけの縁で、そのように聞いてくれる友人も大したものだが、そう尋ねたくなる印象を残したおばあちゃんはやっぱり偉大だったのだ。
作文の字
noteを好きでやっていることからお分かりいただけるかもしれないが、小さいころから作文が好きだった。「先生、あのね」ノートなんて、得意中の得意だった。文章を書くという行為は、昔から性に合っているらしかった。そして、同じく文章を書くのが好きな人には共感してもらえるかもしれないが、筆が乗っている時というのは、紙に鉛筆やペンで書く行為がじれったくてしょうがなかった。つまり、書きたい内容がどんどんあふれてくるというのに、それを書き出していくスピードが追い付かないということだ。井戸水を掬うのに、おちょこで掬っているようなもどかしさを覚えるのだ。
だから、少しでもそのもどかしさを最小限に食い止めるようとの意識が、勝手に働いていたのだろう、普段よりも字が乱雑になりがちであった。
そのことをおばあちゃんに指摘されたことがある。普段はとても字が丁寧なんだから、作文の時も丁寧に書いてごらんと。
その時は、結構難しい注文だなと子ども心に思っていた。やはり、字をきれいに書くことに意識が向きすぎると、書きたいことが次から次へとは出てこなくなるだろうし、出てきたとしても、すぐに見失ってしまって、二度とそのアイディアと出会えなくなってしまう不安を、感覚的に理解していたのだ。
だが、その後は思い浮かんで即書き付ける作文というのをする機会が減っていった。それは、僕が作文の良い書き方を学んだからかもしれなかったし、単純に国語の記述問題以外の作文をする機会が減っていったからかもしれない。実のところはよくわからない。だけど、字への意識をすることなく、ただただ時が過ぎて、今や「入力する」という行為にお世話になってしまっている。紙にペンで書き付ける時よりも、もどかしさは減ったのかもしれないが、あんまり変わっていない気もする。
今回は、感情のままに書いているからとてもよく入力が進んでいる。
水墨画
毎年の年賀状や暑中お見舞いのはがきには、おばあちゃんの絵が描かれていることが多かった。特に年賀状では、その年の干支の動物が描かれていた。後日譚として、うまく書けただとか、この部分が変になったとかを聞くのも恒例行事であった。
そう、おばあちゃんは水墨画を習っていたのだ。教室に通っていた。教室の誰々さんがどうだのこうだのといった話も、幼いころ、そばで聞いていた気がする。
ある時、まとまって過去に描いた作品を見せてもらったことがある。色使いや構図がそれぞれ微妙に異なっており、やはり難しいとされるお題では苦心の跡が見え隠れしていた。子どもでも、どっちがいいとかの判断は案外つくもので、おばあちゃんの自己評価を聞きながら、手にとってはまた手に取ってを繰り返していた。
久しぶりに過去の年賀状を見返す、なんて時間もいいのかもしれない。
手作りおにぎりとコンビニのおにぎり
紋別に住んでいたころは、高速バスとJRか、ずっとバスか、丘珠空港まで飛行機で行く、といった具合だった。福岡や豊中に住んでいたころは問答無用で飛行機を使って、新千歳まで行って大谷地へ向かっていた。留萌の時はまた、JRか高速バスを使っていた。つまり、どこに住んでいた時も必ず公共の乗り物に乗っていたのだった。
だから、夏休みも終盤に迫って家に戻るタイミングでは、必ずと言ってよいほどおにぎりを握って持たせてくれた。その中身の多くは、焼きたらこだった気がする。やや大きいそのおにぎりは、母の握るおにぎりとも少し違っていた。空港や電車のなかで食べるというシチュエーションも手伝ってか、素朴な塩っ気のあるおにぎりが、贅沢なものへと生まれ変わっていた。
ここ何年もおばあちゃんのおにぎりを食べることはなかったが、ふっと思い出した。
そんなおにぎりを作るおばあちゃんは、コンビニやスーパーに売っているおにぎりとは縁がなかった。ある時、早い時間に出かけるのか、出かけてきた後だったのか覚えていないが、いわゆるコンビニのおにぎりを食べる機会があった。
その時、おばあちゃんは包装の開け方がわからず、あらぬところから強引に引っ張り出していた。当時はまだ、そうした商品が出始めたばかりだったのだろうし、世代的にコンビニおにぎりになじみがないのは当然だ。だが、何につけても、いつも難なくこなすおばあちゃんのあたふたする姿は新鮮で印象的だった。
近々、たらこ買ってこようかな。
中島岳志先生の話
ご縁があって、大学時代に中島先生と(オンラインで)お話をする機会をいただいたことがある。
その話をおばあちゃんにしたら、とても喜んでくれた。それ以来、東京に住む僕に、北海道新聞に掲載された中島先生の記事の切り抜きを取っておいてくれて、会ったときに渡してくれた。切り抜き記事をまとめて透明なビニール袋に入れて、「中島岳志先生資料」というおばあちゃんの手書きによる付箋が貼られていた。
きっと、僕が浪人時代に読んだ『奇跡の本屋をつくりたい くすみ書房のオヤジが残したもの』を、おばあちゃんに貸していたことも大きかったのだと、今となっては思う。くすみ書房と僕ら家族は、何かとご縁が多いと一方的にだが感じている。これはまた別の機会にまとめたい。
その本にも中島先生は大いにかかわっていて、何なら僕はよく知らないが、昔報道ステーション(ニュースステーション時代?)にコメンテーターとして出ていた時期があるというではないか。単なるかつての北大の先生というわけでもなかったようだ。よく知られた存在の先生と孫が話したということで、ひときわ喜びも大きかったに違いない。
大学1年時に落語を見せた話
大学時代、落研に入っていた。
先輩方から聞かされてはいたが、やはり身内の前で落語をやることになった。某先輩は、病床の祖母の前で『死ぬなら今』というネタをやったとマクラで話していたくらいだ。今となっては、その時間があったことが羨ましいですと先輩にお伝えしたい。
僕はまだ落語をやり始めたばかりの1年生でネタ数も大した数はなく、そもそもうまくなかった。そんな中でやったネタが、若干記憶が怪しいが、『動物園』(か『あたま山』)だった。なぜ記憶があやふやなのか不思議なのだが、どちらかをやった。
マクラでいつもしゃべっているようなこれまでの転勤族としての経歴を話していたのだが、おばあちゃんが「はい」「そうね」「ええ」などとはっきりと声に出しながら相槌を打つものだから、正直、ただでさえやりにくい環境なのに一層やりにくかった(笑)
でも、最後まで下手くそな落語を聞いてくれて、いいねと言ってくれたのはありがたかった。
もっとうまくなった姿を見せたかったが、2023年3月に札幌で開催した寄席では時すでに遅しだった。会場まで行くのは難しいということだった。後から、ビデオを親が見せてくれたようだが、僕がもう一度大谷地でやるべきだったと後悔している。
おばあちゃんからの宿題だと思って、もっと精進したい。
出かけた場所
出かけた場所なんて挙げればきりがないのだが、そのきりのなさに挑むのがこの記事の趣旨だったりもする。
だから、思い出せる限りここに記していきたい。
旭山動物園:今は亡き旭山動物園号に乗っていった。
円山動物園:今思い起こすと、大通より宮の沢方面に乗った初めてのタイミングだったかもしれない。サルのフンが空から降ってきた。
登別温泉:第一滝本館に泊まった。タクシーの中で運転手とおばあちゃんが話していた記憶がある。
札幌市青少年科学館:何度も行っているから、どの時がどれという記憶はないのだが、確実に行っているはず。
大通りや札幌駅の飲食店:高校生ぐらいになってからは、節目節目で外出先で食事をしながらお話しする機会が増えた。いろんなお店に行かせてもらった。
もっとあるはずなのだが、ちょっと息切れしたかもしれない。今はこれっきりしか思い出せない。今後、親族で思い出話をして、また思い出したら書き足していきたい。
最後に
大谷地という場所は、僕がこの世の空気を最初に吸った場所でもある。
正真正銘の出身地。原点といってよいだろう。
そんな場所に出かける理由があった。
おばあちゃんだ。
最近はたまにしか行けなかった。
ごめんなさい。
「宮崎…遠くに行っちゃって寂しいわ」
こう言われた。
自分の選択に後悔はない。
でも、寂しい思いをさせたのは間違いない。
欲張りすぎか?
いや、たとえこれが欲張りであっても、これからもそこだけは欲張らせていただきたい。同じ後悔はしないようにする。
おばあちゃん。
あなたの娘さんとその旦那さんは、自分で自分の生きる道を開けと、この名前を僕にくれたんです。
だから、やさしく見守っていてくれると嬉しいです。
一人孫より。