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そんなに釘付けになって、何を見てるの?お天気もいいし、お空も綺麗だよ。

この間のイタリア旅行で改めて思ったことだが、イタリア人の方はよく喋る。電車の中でもずーっと喋ってる。1人でも喋ってる。これは誤解を生むね、もちろん耳にスマホをあてている。日本の乗り物のように静かにスマホをくりくりしてる人は殆どいない。電話としての本来の機能を存分に発揮させてお使いになっている。それは別に全然嫌じゃない。イタリア語の小気味のいいリズムが、むしろなぜだか安心する。この人達にはお話しできる人がいるんだなって。

フェラーリカラーのItalo。
誰が出資したのか分かりやすい。

病気になってから大好きな運転が出来なくなったので、時々、公共の乗り物に乗る。タクシーはあまり長い時間乗ると気分が悪くなるようになってしまった。地下鉄でもバスでもお陰様でラッシュの時間に乗ることはないので、お気楽な旅行気分。みーんなスマホを見てる。同じ角度のお揃いの姿勢。移動時間も無駄に出来ないんだね。お父さんが言ってた。「もう、若い人はスマホが友達だね。少しも手放さないし、人間の友達とかいなくても、あの中に友達がいれば楽しいんだろうね。」と。見ててそう見えるんだろうなと思った。

タクシーに乗ると気分が悪くなりだしたように、乗り物の中でスマホや本なんか読んだら、頭は痛くなるし、やもするとバスを止めかねないので、私はもっぱらノイキャンで音楽を聴きながらぼーっと外を見ている。それはそれでちょっとした映画を見てるような気分で、なかなか楽しい。運転しなくなって良かった事は、外の景色を堪能できることかな。面白いよ。街中を行く時は、この間までセブンイレブンだったところが、カフェになってたり、この間までカフェだったところが、美容室になってたり、暑いのにくっつきまくってイチャイチャ歩いてるカップルとか、まだ肌寒いのに半袖半ズボンの旅行者とか、子供を抱っこしながら空のベビーカーを押して歩く大変そうなお母さんとか、見ていて飽きない。ベビーカーに乗ってくれたらお母さん楽なのにな、でも、やっぱり大人の思い通りにならないのが子供ちゃんなのね。しかしお母さん華奢なのに、力強いなあとか。
時々、夕暮れの始まりの、素敵な夕日に染まった空が通り過ぎるのを見てると「ねえ、みんな、空、すごくきれいだよ。今しか見れないよ。」って教えてあげたくなる。
ほんといらないお世話だよね、今、ちょうどパズルがいい感じでクリアできそうっていう瞬間だったり、大好きな彼氏とLINEやってる最中なのにね。そりゃそっちの方が大事か。

イタリア人でも新しい世代はスマホがお友達の模様。

そういう何気ない街の営みとか、風景とかをぼーっと見てると楽しくて、あっという間に目的地に着く。ま、郊外の大学病院なんだけどね。要は。

私の先生は多分30代か40代前半に見える男の先生で、優しさが白衣を着ているような人。物静かでいつも一定のリズムで話す。「お変わりありませんか?」と。
私はその先生をのび太と呼んでいる。メガネの感じと、いつまでも少年みたいな風情と、お医者さんなんだからちゃんとしなくちゃみたいな感じが見てとれるから。
そして、時々思わぬところで、想像もしてなかった姿を見せる。

ダブルの合わせになっている白衣を着ているのだが、ボタンをかけ間違っていて、胸ポケットにたくさんペンを刺しているものだから、デロンとした姿になっている。思わず「先生、なんか白衣、変になってる。」っと言ったら、「えっ、そう?」と言って、軽く胸を突き出してきた。自然に。あーこれは直してくれって事なのかなあと思って、ボタンをかけ直して整えてあげたら「ありがとうございます。看護師さんにも時々言われるけど、わからないんだよね、どうなってるか。」と言ってニコニコ笑った。看護師さん、忙しいとは思うが気づいたら直してあげてくれ。本人には無理みたいだから。

この間の検診の時も、私の目の奥を覗くために顔を近づけて覗き込むのだけれど、終わった途端、のけぞって、頭を押さえてフラフラしだした。おいおいおい、先生、どうした?「大丈夫ですか?」と聞いたら「顔を近づけるから、その間息を止めておこうとおもって我慢してたら、思ったより長くかかちゃって、なんだかフラフラしちゃった。」と、これも自然にマジにウケ狙いでもなく、そう言った。

人間誰しも得意不得意ってあるんだよね。のび太に会うといつもそう思う。これは勝手な見立てだが、多分、大学病院という世界で出世することもないだろうし、元々、出世したいとかも考えてもいないんだろうとも思う。

フィレンツェの美味しいパニーニ屋さん All’ Antico Vinaio。
パニーニの名前がイカしてる。
L’INFERNOとLA DANTEを食べた。

でも、そんなのび太のために言っておきたい事がある。ある日、同じ大学病院の他の課で診察を受けた時、いつもの先生が学会でお休みで、代わりの先生が診察してくれた。その先生は診察を終えた時、こう言った。
「どうせ完治しないし、治療法もない病気だからね。」と。思いがけず、私は傷ついた。わかってる事だとはいえ「どうせ」という言葉がやけに耳についたし、初めて会った代診の、1回こっきりのお前に「どうせ」扱いされたくない。いつもの先生はそんなこと言わないぞ。「大変だけどなんとか一緒に頑張っていきましょう。」って言ってくれるぞ。もちろん、のび太も。
この若造が!お前みたいなやつが出世していくのか?どうなんだ?いや、神様は見ている。と、心の中で悪態をついた。

次の検診の時、ついのび太に、この間こんな風に言われたんですよ。って話したら「医者も普通の人間ですから、いろんな人がいるんです。」と言いながら、身体中から怒りを噴出させていた。表情にも、こちらを見る瞳にも明らかにわかるほどの憤りだった。そんな感情も持ち合わせているのだね。
のび太、ありがとう。私はこれからもあなたを信じて頑張れそうだよ。と思った。

会ってから随分経つが、同じ水筒を机の上に置いて、ずーっと同じビルケンシュトックのサンダルを履いている。そのサンダルの底がもう減りすぎて、それで歩けるのか?っていうくらいになっている。でもそうなってから3−4年くらい同じ状態だから、歩けるのだろうとは思われる。気になってしょうがないが、どうすることもできない。白衣の下のシャツはいつもピシッと清潔にしているので、奥さんが出来る範囲の部分は、きちんとしてくれているのだと思われる。でもサンダルは家に持って帰らないから、どういう状態なのか見る事ができないんだろう。

こうなったら、どれだけ履き続けたら、ビルケンのサンダルは底が抜けるのか、静かに観察し続けてみようと思う。
ずっとこれからも長い付き合いになると思うから。
よろしくね、のび太。


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