「忘れていた物のすべて」と「覚えている物のすべて」の違いは大きい。
このセリフは映画「シビル・ウォー」の中で、アメリカ全土を揺るがす内戦の戦火の中、主人公たちがNYからDCに向かう途中、通り過ぎるある街でのセリフ。報道写真家であるリーと、リーを若い頃から知っている先輩ジャーナリストのサミー。
戦火にありながら、その街はいたって普通の日常を送っているように見える。
銃の音も、それらしき人間も見当たらず、衣料品店も営業しているし、子犬を散歩させる女性もいる。
その光景はここまで来る間に目にした悲惨な情景とはあまりにもかけ離れていて、リー、サミー、ジェシー、ジョエルの4人は驚き、戸惑う。
ただ単に内戦が起こるまでの、いたって普通な街の姿のはずなのに。
リーとジェシーとジョエルは営業している衣料品店に入って、目を丸くする。
店のカウンターによりかかって、今までとなんら変わないように本を読む女性。
「いらっしゃい、好きに見て、試着する時は声をかけてね」
そのあまりにも普通な言葉を受けて、とまどいながらカウンターの彼女に尋ねる。
「内戦が起こってることは知ってる?」
彼女はこう答える。
「もちろん知ってるわ。でもそういうことには関わらないようにしているの」
不思議なシーンだ。
残虐極まりない戦いが繰り広げられている中、関わりを持たないようにするというだけで、今までの日常がそのまま続けられている街。
上のセリフはその衣料品店で束の間の平穏を楽しんだ後、店を後にしたリーがサミーに言ったセリフと、それに返したサミーのセリフ。
「忘れていた物のすべて」
「覚えている物のすべて」
ズキンとした。心が痛くなってきた。
そのシーンまで映画を見てきた痛みとは違う種類の痛み。
この映画は最初から最後まで凄まじかった。
映し出される物は色彩も音楽も予想通りつきぬけてかっこよく、近い将来の設定だからか、街が非現実的に未来的になってるわけでもなく、現在のニューヨークの見なれた景色に、ワールドトレードセンターより高いビルがところどころに建ってるぐらい。だから、なおさら不気味で違和感を覚える。
書いてて思い出して疲れる。
いろんなシーンが思い出されてなんだか気力を奪っていくのだ。
だからといって嫌な感じともまた違う。
今まで生きてきた中で、どんな選択をしてきたかを繰り返し問いただされいる感じ。何かの選択に迫られた時、自分で選択して、選択した結果を受け入れて、他人の選択にも同じ目線で接してきたか。
自分の選択、相手の選択。
その間にはなんの感情も存在させない。
そうしてきたつもりだけれど、生ぬるい世界で生きてこれたせいで、一応出来てるような気がするだけなんじゃないのかと。
戦争も憎しみも偏見も自己愛も差別も、もう語ることがないくらい語られてきたことだから、今更ここで書く気にもなれない。
映画なのに、映画ってわかってるのに恐怖で椅子の上で身を固くしたシーンや、怒りで胸が苦しくなったシーン。
2時間近く息をするのも忘れるくらいの時間を過ごした。
たまらないのは、先輩ジャーナリストのサミーが最後を迎えるシーン。
かれは子供のように笑ってた。
車の外に広がる山火事の火の粉が、たくさん、たくさん、キラキラ、キラキラまって、サミーの最後の時間を包み込む。
そのキラキラをすでに動けなくなった体を車のシートに預けながら、ウィンドウ越しに目で、手で触れるように追いかけながら、サミーは子供のように笑ってた。
今、書いててもダメだ。涙が出てくる。
あのシーンを見られて良かった。
残虐な仕打ちが行われる戦争の中にあっても老いぼれてても、現場にいて、ジャーナリストとしての熱い心を持って、積み重ねてきた経験からの知恵を蓄えて、若い後輩たちに向ける目は優しい。
いざという時には自分のことも顧みず、誰かのために行動をおこせて、どんな状況にあっても、綺麗なものを見つけたら、心底、綺麗だって…。
あんな風に終われたらいい。
そうそう、若いカメラマン、ジェシーのカメラはニコンFE2っていうカメラで、お父さんのお下がり。
私はエセカメラ好きなのでまだまだ何も知らないけれど、あんなにドンパチやってて、ちょっと間違ったら死んじゃうよっていう中で、あのカメラでどのくらい撮れるんだろうと思ってしまった。
先輩リーのカメラはソニーのデジタル。望遠レンズとかもちゃんとついてて、あれだったら撮れるだろうなと思える代物。
ジェシーが、軍人と乱れ飛ぶ銃弾に揉みくちゃにされながら、ガンガン人が死んでいく中、カメラを構えてフィルムを巻く姿があまりにカッコよくて、見てる側からフィルムが巻きたくなった。
左の親指のあの感覚が伝わってくるような気がして、それが今まさに、ジェシーと同じ場所にいるような錯覚をもたらして落ち着かなくなった。
ジェシーが撮ったかのように見せる差し込まれるモノクロ写真のカットがいい。
すごくいい。
ザラついた緊迫感のある写真。
モノクロ写真は好きだったけれど、ナメてた。
色のない世界が放つ脳内変換された圧倒的な色彩のインパクトが、あんなにもすごいなんて。
それなのに目に映る写真は、静かな白と黒とその2色のグラデーションだ。
赤も青も黄色も緑もそこにはない。
カッコいいと思ってたモノクロ写真を本当にはわかってなかった。
フィルム写真が撮りたくて仕方がなくなった。
もちろん戦場に繰り出して撮る緊迫した決定的瞬間もすごいのかもしれないし、その写真を見ることで変わる何かもあるのかもしれない。
でも、建物を撮っても花を撮っても、空を撮っても鳥を撮っても、人間には止めることのできない流れ続ける時間を、閉じ込めて焼き付けて、被写体から盗んでることに変わりない。残酷で素晴らしい。
もっと写真を撮りたくなった。
ど素人のくせに、とにかくシャッターが切りたい。
そして「お前は、どの種類のアメリカ人だ?」と聞いたあいつに、
「お前は、どの種類の人間だ?」と聞いてみたい。
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