子供は汗をかいても、何であんなに平気で走り回れるんだろう。でもちょっと羨ましかったりする。
上の写真は散歩の道の途中で見つけた、何かの柑橘系だと思われる実。
写真で検索して見るとみかんだと出てくるけど、みかんなのかなあ。気になる。
もう少し見守ってみよう。
殆どの人はそうだと思うけれど、出来ない事があると出来るまでやってしまうし、
わからない事があると、わかるまでやってしまう。
時間が足りない。
他にもする事があってそんな事ばかりしているわけにもいかない。
でもだからといって、やっぱり途中で止める事もできない。
それは出来ない事が出来たり、わからない事がわかったりした時の、あの爽快感を知ってるからなんだと思う。
目の前がいきなりクリアになって、心が高揚する。
その繰り返しで生きているようなものだ。
もちろん、それはいきなり大谷翔平みたいにむっちゃやれるやつになったり、フェルマーの最終定理の証明を読み解いたりする程の、出来るようになるや、わかるようになるではもちろんない。
もっとちっぽけで日常的なものだし、少しだけ努力が必要っていうくらいの事。
それでもその程度の事だとしても、出来るようになったり、わかるようになったりすると、それだけで幸せな気分になれる。
そんな事したってただの自己満足ってだけで、別に何の役にも立たないって事だってわかってても、一生懸命になっちゃって。
まあ、役に立つか立たないかっていう基準で生きると何だか世知辛い気もするから、無駄な事だったとしても楽しかったらいいか。
と、言い訳しながら、あれこれと考え散らかしている時間が、やっぱ、楽しい。
今、真っ盛りの子供達は、毎日こんな思いを繰り返してるんだろうな。
繰り返してると思いたい。
なんだか面白くない事があったとしても、昨日よりサカアガリが簡単に出来るようになったとか、新しいマンガを読でたら知らない国が出て来て、地球儀で探してみたら見つかったとか、そんな自分の中にたまっていく喜びで、幸せ気分になって欲しい。
そうすればその内、ちょっとした嫌な事なんて、気になりはしても別にいっかって思える様になる気がするから。
公園を走り回ってる子供達を見てると、ありあまるエネルギーと笑い声で、その子達の周りの温度が、私の周りのそれより高いんじゃないかと思えてくる。
何であんなにガゼボの周りをくるくる走り回れるんだ。
涼しくなったとはいえ、やっぱり動くとちょっと暑くて、その証拠に前髪がおでこに張り付いてるじゃん。
鬼は誰なんだ?どれもこれも同じ方向に走って行ってるし、どれが先頭なんだか分かりやしない。
時々、奇声を発するのがいるから、それが鬼に捕まったやつって事なんだろうか。
飽きないやつらだなあ。って、それをずっと見てる私も物好きなやつだけど。
もっと暗くなってきたら、みんなお家に帰ってお風呂に入ってご飯を食べて、お母さんにあーだこーだ話すんだろうな。
きっとお父さんはまだ帰ってきてない。
そしてあんなに走り回ったんだから、きっとすぐ寝ちゃうんだ。
ついこの間までそんな事していたくせに、大人になって行くどの段階で、そういうのやめちゃうんだろう。
昨日交差点で、お母さんに連れられた6歳くらいの女の子が
「どうして信号青なのに、車が入ってくるの?どんどん来るねえ、おかしいねえ」
と自分達がこれから渡る方向の横断歩道の前で、おっきな声で言っていた。
本当そうだよね、私もちょっとイラッとしてたんだよ。
もうすでに赤になってておまけに狭いのに、横断歩道にちょっとだけでも頭を突っ込んだんだから、通ってもいいでしょみたいな態度の車。
そういう運転をする人は、どんな子供だったんだろう。
ちっちゃな子供が横断歩道の近くに立ってるというのに。
人はそれぞれ、それでいいって言うけれど、信号が赤になったら止まるっていうのは、それぞれの基準でいい訳じゃない。
と、教わった気がするな。
それとも、もっと人間離れしたようないけない事をするようになった大人は、奇声をはっする鬼ごっこも、お母さんに報告するアレコレも、ちょっとだけでも出来るようになったり、わかったりしてワクッと幸せになった瞬間も、経験する事ができなかったんだろうか。
まあ、だからって、それを言い訳にされても知った事じゃないけれど。
横断歩道の前で手を上げて待ってる子供(大人もだけど)がいたら、そんな勢いで突っ込んでくるんじゃないよ。浅ましいな全く。
このくらいならいいだろって自分勝手に思ってそんな事繰り返してたら、いつかきっとえらい事になったりするものなんだ。
それも他人を巻き添えにして。
自分がされてもちょっとだけチッって思うだけだけど、ちっちゃい女の子がそれをされるのを見たら、なぜか猛然と腹が立った。
そういう感情ってどこから来るんだろう。
不思議だ。