どうして自分を受け入れられたのか?
最近、自分をとてもよく受け入れられるようになりましたが、少し前まで自己批判に明け暮れていた私が、なぜここまで自分を受け入れることができたのでしょうか?
考えてみました。
なぜなら、「どうしてそうやって受け入れられるのかなぁ」と疑問を抱かれた方がいたからです。
答えは簡単に出ました。
それ自体、無意識のうちに私が求めていたからです。
自分のいやーなところ、だめーなところ、みんな許して楽になれたらいいなと。
こんなふうに考えたことはなかったけれど、そう感じていたのは間違いありません。
例えば、特定のことに対して抵抗感があり、受け入れることができないように思っている時、そのようなものは私には必要ないと言い聞かせていました。
そうやって突っぱねるものの中には、他者へ助けを求めることもありました。
自分でできる、そんなやり方は好まない、かえってウザいなど、言いわけしながら強がってきました。
でも、本当は欲しかったのです。
本当はものすごく求めていたのです。
この欲求を認め、受け入れることができたから、問題が解消したのだと思います。
過去の自分がやっていたことは問題解決のための事ばかりでした。
今は、やりたいことを実現するための新しいことを考える日々です。
やりたいことの練習や、失敗をたくさん経験しています。
自分のアイディアがはねつけられてもめげたりしません。
私には本当に望むことがはっきりしているからです。
苦しみの強い人は、罪の意識に騙されていると思います。
とことん悪いことをしてしまったかもしれませんが、そんな自分でも、できることなら許されたいと、微かに求めているはずです。
いろんな苦しみ方があると思いますが、私が経験した一番の苦しみは、罪悪感がもたらすものでした。
罪悪感は脳が作り出す習慣的な感覚の反応にすぎないと学びました。
幻覚みたいなものです。
そのまま放置するなら、罪悪感は生涯消えることはないでしょう。
そして、心底楽しむことなど不可能でしょう。
罪悪感は、思いやり、親しみ、笑い、愛から溢れるすべてをブロックしてしまうからです。
とわいえ、自分を責め続けることは、ある意味で自己防衛です。
自分を守るために他者からの批判を先取りし、自分を傷つけることで、その痛みを和らげようとする無意識の働きがあると思います。
人によってはこうした時期を免れないと思います。
無理やり自分を許そうとすれば、それも逆効果になってしまいます。
こんな声もあります。
「自分のやったこと、やってきたことに対しては、自分で責任をとれることしかやらないので、罪悪感も、後悔も持たないかなぁ…」
これとは反対に自分を責めていた私はなんだったんだろう?
かつての私は自分の「助けて」という深い欲求を無視したまま、他人の世話をするようなことをしていました。
自分の力ではどうにもできないことに責任をとらされる結果となり、深い傷を負いました。
今ならわかることも、当時は全くわかっていませんでした。
一般的に人は自分以外の他者に対する責任感を意識します。
が、本当に必要なのは、自分自身に対する責任なんだと、今は胸を張って生きられるようになりました。
自分を受け入れて楽になるということは、多くの人が望んでいるはずなのに難しいのは、自分のために生きることがわがままなことだと感じているからではないでしょうか。
わがままで、いいんじゃないでしょうか。
私は、自分を世界一のわがままだと思いながら好きなことをしています。
自分のために生きて、楽しめるようになると、自分を大切にするのと同じ量の思いやりを他者に向けるようになります。
驚くほど自然に!
素敵な縁にも恵まれます。
素敵な事も起きます。
素敵な事がどこまでもリンクして繋がります。
こんなふうに楽しむ人がわがままだと言うなら、わがままな人こそ正しい人だと言えます。
やってみれば解ります。
自己受容と他者への愛は、実は深く繋がっているということです。