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社交鬱 「もうたくさん、いい加減にしろ!」
友達が「社交鬱」になってしまいました。
これは初めてのことではありません。以前にも同じことがありました。
私だったら、合わない人々とは距離を置くのですが、友達にはそれすら許されない環境があるようです。
前回、友達は「自分なりに考え方を変えて乗り切った」と話していましたが、今回もまたそうするのでしょうか。
ちなみに、「社交鬱」という診断名は存在しません。友達の状態は、一般的な「社交不安障害」や「対人恐怖症」とは少し異なります。そのため、私たちの間では造語としてそう呼んでいるのです。
友達は、逃れることのできない独特な習慣や、周囲の気遣いのない図々しい人々に嫌気がさしていると言います。
「ただそれだけ?」と思われるかもしれませんが、詳しく話を聞いてみると、本当に気の毒になるほど迷惑な人々に囲まれていることがわかります。
要するに、友達の環境は、「個を尊重する」ことが許されない場なのです。
私の場合、人間の在り方に絶望することを繰り返し、ついには引きこもる選択をしました。
だからこそ、今の私には望まない人づきあいは、もう必要がありません。
それでも、私の人生が再び社会の中へと動き出している今、友達の悲劇を他人事とは思えないのです。
一方、今の私は「見えない自信」を感じています。
それは正体不明の自信です。
おそらく、自己分析を重ねて「自分を認めて受け入れること」と「捉え方を変えること」を忍耐強く続けてきた結果、自己効力感が発達したのだと思います。
さらに、「自分らしく生きることで、同じように自分らしく生きる人々との交流が生まれる」という、単なる言葉以上の実感が今の私にはあるのです。