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とことんやって程々を知る
私自身、若い頃は根が不真面目だった。今もその本質は変わらないが、「程々」という感覚を身につけた。なぜなら、度を越せば痛い目に遭うと理解したからだ。
私の知人は逆に生真面目すぎた。その結果、彼もまた苦しんでいた。何事も極端だと生きづらくなる。
しかし、人生には、とことん強烈に生きることを要求される場面がある。
たとえば、嫌いな人とたまに顔を合わせる関係は、じわじわとストレスを蓄積させる。しかし、嫌いな人と24時間一緒に過ごせば、決着は早い。
私には、一つの習慣があった。嫌いな相手を、心の中で徹底的に罵ることだ。中途半端には終わらせない。もうこれ以上は憎めない、というところまで突き詰める。もちろん、相手のいないところでやる。
すると、不思議なことが起こる。ある一線を超えた瞬間、突然、相手に対する尊重の念が生まれるのだ。もはや相手のことがどうでもよくなり、私は楽になる。
それは「憎みきれなかった」ということではない。「憎みきったからこそ」湧いてくる、愛情にも似た感覚だ。
今の私は、多くのことを程々に済ませている。しかし、それは妥協ではない。過去に強烈にとことん生きたからこそ、今の「程々」が心地よいのだ。
程々で生きることは大切だ。しかし、強烈に生きるべき瞬間を逃せば、それもまた苦しみの元になる。今も私は「程々」と「強烈さ」のバランスを大切にしている。