かもしれない
もうかれこれ20年以上前に親知らずを左右とも抜いている。
その親知らずが前の歯を邪魔するように斜めに生えているといわれ、虫歯の治療が難しいと医師が腕組みした。
根っこもかなり深いし、時間もかかるのでうちではできない、紹介状を書くからそちらで抜いてきてください。
都内の大学病院まで行き、受付で問診票を書き提出すると、どうやら抜歯の日程を改めて予約して終わりだということがわかった。
ここまで時間と交通費をかけて来てそれだけ?せっかくだから抜いてくれと思い、出来たら今日やってほしいとにこやかにお願いした。
すると受付の方の顔が変わった。
これはれっきとした手術なんですよ。
歯を抜くことを甘く考えないでくださいね!
受付のひとの怒りのため息が聞こえたが、それでも調整をしてくれて抜くことになった。
麻酔のための麻酔がないかと願うくらい、歯茎に刺さる細い注射針ほど痛いものはない。
薬剤が入っていく様子まではっきりとわかる。
遠慮なしにこれでもかと、痛いと飛び上がりそうになる箇所にブスブスと何回も深く刺さる。
親知らずを抜くことを甘くみていたわけではない。
しかしそれからは想像を絶する数十分だった。
無様に口をあんぐり開けているところを通りかかった他の医師達が代わる代わる覗き込んでくる。
おそらく研修医であろう若い男性もいればベテランだと思われる者も面白そうに覗き込んでくる。
ひどい傷みに耐えている中、ああ、これは大変だなとかなんだとか揶揄うように笑いながら話している。治療の解説を始める者もいる。
やめてくれ。頼むからどこかに行ってくれ。
こんな情けない姿を見られる屈辱があるか。
一本の歯を抜くためにかかった時間は永遠に思われた。もはや麻酔など効いていない。
グリグリガリガリと顎が抜けるかと思うような力をかけられて、その傷みでわたしの中で何かが死んだ気がした。
やっと抜けた親知らずなど見る余裕もない。
麻酔が切れるそのタイミングを逆算して服用した薬のおかげでなんとか乗り切った傷みは、わたしの左頬を思いきり腫れあがらせた。
サイドの髪の毛でなんとか隠そうとしてもはっきりわかる。
抜歯の後、再び足を運んで経過をチェックしてもらなければならない。
このおたふく顔では電車に乗ることすら憚られる。
最終手段でマスクを着けて誤魔化そうとした。風邪を引いてるわけでもないのにわざわざ着けるのはかえって人目を引きそうだ。
しかしマスクを外すと頬の膨らみが殴られたあとのようにも見える。
やはりマスクをするしかない。
親知らずを抜いたあとは異常はなかった。
診察を終えた医師は急いでマスクを着け直すわたしにそっけなく言った。
誰もあなたのこと見てませんから大丈夫ですよ。
憤慨したわたしがチラリと医師を見ると、下を向いて会計に出すための書類を書いていた。
わたしの膨れた頬を他人は見ているかもしれない。でも見ていないかもしれない。
誰も気にしていないかもしれない。
わたしの気のせいかもしれない。
これが自意識過剰というものなのだろうか。
親知らずを抜く、ただそれだけのことなのにこんな哲学的なことを学ぶことになるとは。
だから他人の目を気にしてる場合じゃない。
誰も見ていない。
自分だけは知っているし、わかっているかもしれない。
それだけでいい、のかもしれない。