【ピリカ文庫】わたしが居ても良い場所
ひとの顔色ばかり見ていた子だった。
家でも学校でもカメレオンのように瞬時に周囲の状況やひとの気持ちを把握し、すばやく呼吸をするように自分を目立たなくし、摩擦を避けるのに長けていたわたしの居場所は本屋さんと図書室だった。
カメレオンになった理由は簡単だ。
母にいつも怒られていたから。
グズだと言われていたから。
遅いトロい。気が利かない。
頭が悪い。要領が悪い。
目立ってはならない。
怒られるようなことはしないようにした。
本当はこうしたいと言うのをやめた。
母の機嫌が良い日は滅多に無かった。
たまに口の端が上がっているだけで飛び上がるほど嬉しくて、学校であったことを全部夢中になって話していた子だった。
そんな母は月一くらいの頻度で町の本屋さんにわたし達姉妹を連れて行った。
そこで好きな本を一冊だけ選ばせて買ってくれることになっていた。
小さい町の小さな本屋さん。
しかしわたしにとってその場所は唯一の喜びとも呼べる宝物だった。
本棚はたくさんの本達にびっしりと埋められ、手に取られるのを今か今かと待っている気がした。
わたしを読んで。
ぼくを選んで。
そんな無数の声が聴こえてきて圧倒されてしまう。でも嬉しくてしかたがない。
ドキドキしながら本棚に触れる。
童話が特に好きなわたしはしらゆきひめと背表紙にある一冊をそうっと抜き出す。
そして新しいインクの匂いがたちのぼってきそうな本の表紙を撫でたあと頁をめくる。
ああ、なんてしあわせなんだろう。
本の中では綺麗なお姫様にも、怖い鬼にもなれる。わたしはつかのま自由になれた。
わたしが生まれた年は第二次ベビーブームの少し前だ。
その後爆発的に人口が増え、学校の教室が足らなくなると言う前代未聞のことが起きた。
理科室が無くなり、音楽室も半分になり、図書室もあらたに押し込められるように建てられたプレハブの建物に変わった。
わたしは学校に着きランドセルを下ろすと、借りてきた本を胸にしっかりと抱え、図書室に向かった。
プレハブの図書室はいつも薄暗く、青白い細長い蛍光灯が点いていた。
カビ臭い匂いもした。
本棚はいくつも並んでいて、かくれんぼのようにあっちの棚、こっちの棚とぐるぐる歩き回った。そして背表紙からピンと来るものを選んでパラパラとめくる。
難しくてわからない。
また本棚に戻し、次の棚へ。
シャーロックホームズやミスマープル。
謎解きやミステリー。
そこには知らない外国の人間たちの悲喜こもごもの物語があった。
今は図書館に行くよりもずっと簡単に楽に家にいながら好きな本を選ぶことができる。
天気にも体調にも左右されず、おまけにポストに配達までしてくれる。
届いた時にはやはりはやる気持ちを抑えて取り出す。
それでも何か物足りない。
なんだろう。
小学生だった頃の自分がそうしていたように、本棚から取り出すことができないからだと気づいた。
ざらっとした本棚はインクと古い頁の匂いがした。思い出につながらない本はどこか悲しいのだ。
わたしは本棚を買うことにした。
少し値は張ったがシンプルで丈夫な本物の木の棚だ。
ネットで買った味気なかった本もそこに収めると格好がついた。
仕事や日々の生活に追われて疲れた時、あの子供だった自分にタイムスリップできるのは、本棚から何を読もうかなと考えながら選ぶひとときなのだ。