一期一会
昔々のことだ。
原宿で数年アルバイトをしていた。
竹下通りは今でも土日祝日ともなるとひとが波のようにうごめいているのだろうが、あの当時は本当に数十メートルの距離も押すな押すなの山手線の通勤ラッシュ並みだった。
そんな竹下通りがもうすぐ終わり、という場所にある店で働いていた。
そこはジーンズカジュアルからスーツまでなんでも揃っていた。
わたしは2階のスーツ売り場にいた。
ある日、50代くらいの細身のいかにもロッカー!!という雰囲気の男性がひとり服を選んでいた。
原宿はさまざまなお客さまがいらっしゃる。
なんでもありだ。
もしよろしかったらご試着もできますので。
そう声をかけると、こちらをじっと見てまたスーツに視線を移す。
これ着ていい?
そう言ってかなり派手な色の、いわゆるディスコの黒服の代名詞だったショートジャケットを指で指した。
金髪で細身でサングラスのその人が鏡の前で袖を通し、右を向き左を向き、肩越しに後ろを覗くように細かくチェックをするのをわたしは傍で黙って見ていた。
ハスキーな声で彼は言った。
今度、武道館でライブがあるんだよね。
それを聞いて思ったのは、『すごいな、こんなおじさんもそんな場所でダンスの大会にでも出るのかな?』だった。
あら〜それはすごいですね。
わたしは感心したように大袈裟に言ったのだが、彼は少し驚いたようなガッカリしたような、そして信じられないといった、なんとも言えない表情をした。
来店したお客さまが皆わたしたちを見て、えっ!えっ!という驚きの表情をしているのには気がついたものの、何にそんなにも驚いているのだろうと内心訝っていた。
フィッテングを終え、まち針で止めた裾上げには30分ほどかかると伝えると、あとで取りに来ると言い、会計を済ませてじゃあとそのひとは去っていった。
ありがとうございましたとわたしが言うやいなや、こちらをさっきからチラチラと見ていた同僚が興奮したように駆け寄ってきた。
おまえさ、今の人わからなかった?
その声がうわずっている。
え?なにが。
あの人、内田裕也だよ!!!!
え?誰それ。
知らないの?嘘でしょ。
ロケンロー!!のひとだよ!!
樹木希林の旦那!!
え?そうなの?全然気がつかなかった。
おまえなー、お客さんたちだってずっと騒いでいたぞ。なんかお前気づいてないと思ったわ。
ああ、どおりで。
ようやく合点がいった。
この紫のスーツで歌うのか。
ステージ衣装もこんな風に自分で買ったりするものなのか。
裾上げをしながら、つらつら考えた。
いい人だったな。
わたしが気がつかないから、さぞ驚いたか歯痒く思っただろう。わざわざ武道館でライブ、までヒントを与えてくれたのにも関わらず、まったくピンとこなかった
非常に申し訳なかった。
シューとアイロンの蒸気があがる。
裾上げはいつもより丁寧に、を心がけた。
このパンツを取りに来たら絶対にサインを貰おう。
しかし書いてもらうちょうど良い色紙が、ない。白いトレーナーの背中にでも書いてもらおうか。
いろいろ考えてその時を待った。
店のスタッフ達も来るのを待った。
引き換えを持って現れたのは、残念ながら彼ではなかった。
俺のことをわからなかったなんて信じられない。もしかしたら臍を曲げてしまったのかもしれない。
ロケンロー!!
それからそう杖を振り上げる様子をテレビで見る度に、あの日のことを思い出していた。
もう鬼籍に入ってしまった彼のサインを貰いそびれたことを今でも悔やんでいる。
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