日航123便墜落事故(事件)・第70回〜1986年4月25日に開かれた事故調査委員会聴聞会で、日航・平沢専務が述べたことの真意とは?
1986年4月25日におこなわれた「事故調査委員会聴聞会」において、日本航空の平沢専務は以下のように述べている。
はたして、これはなにを意味するのか。その真意はなんなのか。
ひとつ踏まえておかなければならないのは、この会には、「日本航空」のほか、「圧力隔壁破壊が墜落事故に至る端緒」説に疑問を持つ日航関係者のグループ「日航乗員組合」の面々が参加していること。そうして、平沢専務は当然のごとく「日本航空」側の立場で答弁しているということ。この時点で両者の見解は100%真逆だったとまでは言い切れないようだが、前述のように墜落に至る発端のインシデント、さらにボーイングの修理ミスの実態などにおいて、異なる見解を示しており(いわゆる事故調査委員会派と反事故調査委員会派に至る流れ)、それを念頭に置きながら、平沢氏の言葉は受けとめる必要がある。
率直に言って、平沢氏のこの弁は、特に核心を突いたものとは思われない。なぜなら、仮に「123便の上側方向舵と下側方向舵の動きが通常とは異なるもの」だったとして、
①事故調査委員会派の説。圧力隔壁が最初に壊れ、一気に抜けた空気により垂直尾翼や補助エンジンAPUなどを破壊、脱落させた
②反事故調査委員会派の疑問(仮説)。壊れた順番として、圧力隔壁からではなく垂直尾翼のほうからではないのか
のどちらの言い分にも差し障りはなさそうだから。方向舵の異常な動きが事故に至る一番の原因の意味で言ってるのであれば、俄然話は違ってくるが、そういう意味ではないだろう。あくまでサブ的な意味合い。方向舵の異常な動きが仮にあったなら、必然、修理ミスや点検ミスの可能性に繋がるわけで、そこから発展して、それにより破壊破損の規模が拡大したのではないか? といった疑念が生じるということだろう。そう思われる。
すでにこの時点で、ボーイング社は123便の機体の修理ミスを認めており、平沢氏の言葉の真意は、そちらに沿っての意味が大きかったと見ていいだろう。ただし、事故調査委員会の最終見解が出るのは翌年1987年の夏のこと。この時点ではよけいな波風立てないよう、正論ながらも、どっちつかずの曖昧な答弁で済ませたように思われる。