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松本清張も作品で取り上げた戦後有数の不可解ミステリー「帝銀事件」。元死刑囚・平沢貞通氏が事件当時住んでいた場所を知って自分は驚いた

ネットで帝銀事件(昭和23年1月26日)に関するものをあれこれ見ていたら、事件当時、平沢貞通氏が住んでいた所が中野区宮園通2丁目32番地というのを知って驚いた。

現在、中野にそういう住所はないが、宮園通り(住所のほうは、“り”が無い)といえば、現・大久保通り。自分の住まい(中野区中野1丁目)からかなり近いのでは? と思われ、調べてみた。

以下は、ネットで見つけた昭和30年代の中野区の地図より。

地下鉄丸ノ内線開通前。青梅街道(当時は本
町通り)には4つの都電の停留所名が見られる


これを見ると、実に、1番地違いの宮園通2丁目31番地が載っている。その隣の位置と考えると、堀越高校(一般に知られる堀越学園という名称は学校法人名。学校名は堀越高校が正しい)と大久保通りの間にあたる。いまの中野区中央2丁目。我が住まいから歩いて、4、5分くらいの場所で、思った以上に近い場所だった。

自分の中で平沢氏と言えば、
①性分として未解決事件への関心
②冤罪問題
③自分と同じ北海道出身

ということもあり、いろいろ気になってきた存在なのだが……。そうか、いまから76年前、あのあたりに住んでいたのか。

令和6年の今日、中野区中央2丁目や中野区中野1丁目に住んでる人間で、その事実を知っている者は、はたして、どれぐらいいるだろうか。


*備忘余談。当日事件前の途中までは、平沢氏にアリバイあり。その後、時間的に両論生ず。警察側の一見立てとして、14時50分頃、池袋駅着。15時過ぎに椎名町の帝銀に到着……。東京の地理を知る者からすると、稀に見る大犯罪のわりに、行動として明らかに余裕がないと言わざるえない。



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