推測と証拠

生きていると
論より証拠であって
裏付けを求められることがよくある。

論理をもとに話をし、
なにか疑いを持つと証拠は?と
言われる。

確かに、常識的に考えて証拠があると
他人の納得を得るのにわかりやすい。

でも個人的な感情や考えが
そこに反映されているのだろうか?

社会性を重んじて個人がいよいよ死んでいる。

僕は最近本当によくそう感じる。
本当に自由に考えるというなら
制約はないし、枠組みは消えるはずだ。

一つの方向性に対して目を向けて生きていくなら
それは必要だと思う。
でも人は可能性を求めるべきである。

頑張っているから
偉いとは思わない、
ただその人なりの何かは見つけてほしい。

以前は、頑張らないといけない、
頑張らないと報われないと思うこともありましたが
一つのことで考えると生きづらくなります。
道は一つじゃない、あえてその道を選択をしないということも考えてもいいと僕は思う。

人としての道はたしかにあって
自然体でいられる場所、言い換えると
無理のない場所、頑張るならその場所を探すこと
そしてそこに見合う準備をすること。

自分自身がその場所にいるかはまだわからないけど
楽だからいいという場所ではないと思っている。

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