やめた。
春菜は「両親をBリーグの試合観戦に誘うこと」をやめた。春菜にとって、839個目のやめたことだった。
最初に約束していたのは春菜だった。仲が悪いわけではないわりに共通の話題が少なかった両親と、地元に出来たバスケットボールチームの話でひさびさに盛り上がれたのが春菜は嬉しかった。年末、実家に帰るタイミングに合わせてチケットを抑えたことを両親に伝える。試合の前にどこで一緒にランチを食べようかとグループLINEで相談していたとき、春菜は満ち足りた気持ちになった。
母からの報告は、伺うような調子だった。「しょうちゃんがみんなでその日に帰ってくるって言ってるんだけど、どう思う?」
弟の正太は結婚して7年目だった。いまは甲府に住んでいる。実家から遠いわけではないのにあまり寄り付かないのは彼の妻と両親の折り合いが良くないからだ。二人の孫に会える貴重な機会なんだけど、あなたとの約束がその日にはあって。そんな状況について、春菜はどう思う?
母の意を汲み春菜は口角を上げ、約束を解消した。支払い済みのチケットは発券すらせず、「両親をBリーグの試合観戦に誘ったら喜んでもらえるかな?」と考えることを、春菜はその後一切やめることにした。
春菜は悲しかったが、いつものように一人暮らしの部屋を出て、サイゼリヤに向かった。バッファローモッツァレラのピザを食べ、ワインを飲み、柔らか青豆とペコリーノチーズの温サラダを頼んだ。喉が渇いたのでビールも飲み干した。ファミリーマートに寄り500mlの氷結レモンとファミチキをカゴに入れ、ジャンプも買った。ドトールでアイスコーヒーをテイクアウトし、急に気が向いたので着替えが無いことも気にせず少し遠回りして銭湯に行った。帰り道、ぬるくなった氷結が3円のビニール袋の中で揺れている。その様子を見下ろして、春菜は安心した。この街はいいな。期待と対価に揺らぎがないから。