愛犬の日によせて
今日は愛犬の日ということなので、愛犬の日かあ、なんて思いながら帰路についた。
仕事帰り、ざあざあ雨。カッパを嫌うくせに濡れるのも嫌だという難しい注文を毎度押し付けてくる犬は、今日さぞかし散歩を嫌がっただろう。そんなことを思いながら。
五年前、先代犬を亡くしたばかりの我が家には、二代目を迎える予定はまったくなかった。
長生きした先代犬を亡くした悲しみがなかなか癒えなかったことも大きかったし、ふたたびいつか、あの悲しみがやってくるのであれば飼わない方が、なんて気持ちも大きく。両親からすれば先代犬の晩年の介護の大変さもネックだったようで、そんなわけで先代の、くりくりとした大きな目をした柴犬を亡くしてからは、犬がいない寂しさをそれぞれ抱えつつも二代目を迎える話はしばらく出なかった。
それでも、やっぱり犬がいない暮らしというのはなんとも寂しいものだ。すっかり年老いてほとんど寝ていたとしても、毎日おはようと挨拶をしておやすみを告げる、そんな家族が一匹減ることは思いのほか淋しかった。
新しく犬を飼うにしても、その後十数年は生きる。飼い切れるのか、新しく迎えるとしてその子が虹の橋を渡るまで幸せにしてあげられるのか。すべて話し合って新しい犬を迎えることにしたのは夏ごろのことだった。そしてちょうどその頃、どうやらブリーダーさんのもとに子犬が産まれて貰い手を探しているという話を聞き、まずは両親が子犬を見に行った。
「見に行ったらもう駄目だと思う」。帰ってきた母は開口一番そう告げて、コロコロの子犬の写真を見せてくれた。「そりゃそうだわ」と思った。先代犬がうちにやってきたときとちょうど同じくらい。両手にすっぽり収まるようなぽてぽての子犬は、間違いなくかわいい。そうして十匹ほどいた子犬の中から選んだ柴犬の女の子。
今年5歳の、おはぎである。
ちまきかおはぎか、最後まで紛糾した名前戦争を終え、おはぎというひょうきんな(飼い主はかわいいと思っている、食べ物の名前がつけたかったのだ)名前をつけられたおはぎは、先代犬と比べると随分お茶目で元気で、驚かされることも多かった。それでもまあ憎めるはずもなく、我が家の末っ子として今日ものんびりと自由に生きている。
おおきな耳とくりくりとした目、つやつやの黒いお鼻にクリームパンみたいな手。全部が全部いとおしくて、毎日犬がいる暮らしの幸せを噛み締める。いつかお別れの日はやってくるけれど、先代犬から脈々と受け継がれる、「犬がいてくれてよかったな」という幸せは他には変え難い。
肉球からとうもろこしの匂いがすることも、犬がいる暮らしがどれほど幸福なのかも、犬がいなければ知らなかったことだろう。べつに知らなくとも生きていけることかもしれないけれど、知って、感じられてよかったと毎日思う。もふもふの胸毛に顔を埋めるときの幸せも、ふと起きたら足元に犬が丸くなっているときの「ふふっ」という幸せも、全部犬がいなければ知り得なかったことだ。そうして犬に日々の幸福度を上げられながら、人間は今日も幸せを噛み締めて生きている。