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文に書かれるってなんだよ

この前書いた記事のことを、まだ考えていた。

最近は本を読んでいても、YouTubeを見ていても、いつも思考がこの一点に導かれる。文に書かれるとはどういうことなのか、どうしたらその境地に自由にアクセスできるのか。

森田療法と同じでひたすら待てば良いとか分かったようなことを書いたけど、その状態が訪れるのを意識して待っていても逆効果な気もしてくるし…、これは結局焦りからくるものだろうか?実際、完成できずに中断している文章が四つほどあるが、そのどれも文に書かれようとして書いてみたものだ。

結局頭で書いている。
文に書いてもらおうとしている時点で自分が主体となって先導している。目指す境地はそこではない。一日の半分には必ず夜がやってくるように、無意識の方が自ずとやってきて自己を飲み込んでいくような、そういうサイクルを獲得したい。しかし、”したい”と思っている以上、意識が一歩も二歩も先に出ている。

少し話は変わるが、最近アニメや映画や色々なものを見ていると、あらゆるものが意味に囚われ過ぎていると感じる。セリフの裏に潜んだ真意とか、表情から読み取れる背景とか、良質とされる作品には伏線が付きものであり、見る方も伏線回収に躍起になっている。作品を見て考察を見るまでがセットになっていて、納得のいく考察を見つけるまで作品は消化されない。考察の方がメインコンテンツと化していると言っても過言ではない。お笑いや怪談まで考察される時代だ。とにかくあらゆるものに論理的解法が必要とされている。

僕も進撃の巨人とかオッドタクシーを見て、その伏線回収や考察を相当楽しんだ側ではあるのだが、最近はこれに限界を感じる。”伏線”という文字を見るだけでなんとなく食指を引かれなくなった。作者があらかじめ離して置いた点と点を見つけて「すごい!!結んだら線になった!」って喜んでいるのって…それって当たり前だし、ってかそういう、”作者の触って欲しいところ”に依拠するコンテンツって一定の領域を超えないっていうか…広がりがないっていうか…?作者も意図しなかったところ?から?無意識領域?から?滲み出てきちゃった本気汁?みたいなものを拝みたいのにっていうか…?

これは、進撃の巨人にはそんなに感じなかったけど、オッドタクシーにはすごく感じたことである。オッドタクシーは面白かったけど、カラーレンズをかけたチャラい大人達が「今ウケがいいからどんでん返しとかをいっぱい入れちゃおう!」と会議している姿が透けて見えた。会議室にいた全員がAirPods Proを付けたまま会話していたので無意識領域からの声はノイズキャンセリングされていた。だから聞こえは悪いが(二つの意味で(笑))伏線ありきで制作された、頭で書かれた作品という感じがした。本気汁は勿論のこと男達の精子濃度も薄い気がした。

その点、進撃の巨人には一つ一つの伏線に必然性があるように思える。その必然性はキャラクターの作り込みからきている。一人一人の人生があって、それが交差して、だからああ言ったんだという必然が感じられる分、伏線が伏線然としていない。そして何より諫山創という一人の男が世間からの期待とか評価とか色々なものに苦悩しながら葛藤しながらお腹痛くなりながら、人生をかけて作ったんだなあという手汗の染みた鉛筆の軸の木の汁みたいな味がした。(オッドタクシーも同じかもしれない、だったらゴメン)その本気汁にこそ諫山も意図しなかった効果が現れていて、それこそ諫山の無意識領域の声で、それが作品の随所に散りばめられていて、そここそが現代の伏線回収的な、謂わば謎解きの楽しみに終始するようなコンテンツとは一線を画する理由に思える。

アニメーターや漫画家がよく「キャラが勝手に動きだす」と言う。キャラクターが勝手に走って飛んで喋って、作者はそれを書くだけだという話がよくあるが、これは本当だろう。無意識が意識を追い越して、客体が主体を乗っ取って、作者の方が作品に書かれている。そして読者にもそれは伝わる。そういう作品からは莫大なエネルギーを感じるし、そういう作品は「キャラが勝手に動きだした」と言われても腑に落ちる何かがある。

伏線回収も謎解きもそれはそれで楽しいエンタメだが、それ以上の広がりは見せない。本当に見るべきは、本当に心を揺さぶるのは、作為の外側で生まれたものではないだろうか。そして私たちは皆、本当はそのことに気が付いているのではないだろうか。皆本当はイノセンスが最上だと知っているのだから。

理想は未だ一度も達したことがないが故に理想たりえるが、では何故見たこともないその理想に私たちは恋をするのか?それは無意識が知っているから。無意識だけが生まれながらに理想のなんたるかを知っているからだ。故に、その無意識から生み出された作品は理想に限りなく近い。私たちが作品を見てそのイノセンスに打ちのめされるのは、そこに内包された理想の近似値を感じて理想のなんたるかを思い出すからではないだろうか。

ただ、わかっていても難しい。いやむしろ、わかっているからこそ難しい。意識的に無意識を引き出すあらゆる方法論、オートマチズムとかカットアップとか、は本末転倒していると思う。バロウズはひたすら作為しか感じなくて途中で読むのをやめてしまった。多くの作家や画家が、神や瞑想など、最終的に霊的世界に行き着くのはこの為かもしれない。無意識領域に意識的にアプローチする手立てとして唯一言い訳のきく方法が霊的修行?自己対話の鍛錬が唯一それを引き出す術なのか?いや、これも破綻している。なんだかよくわからなくなってきた。

とにかく無意識が最上とわかっているからこそできない。そういう考えに囚われている日はダメだ。何をやってもダメな日はダメ。自然と寄り目になってiPhoneの画面の中心に吸い込まれていきそうな、思考が小さく小さく収まっていくようなソワソワした感じがある。そういう日はじっと座っていられないし、頭で考えても書けない。勿論文が書いてくれることもない。ただそういう日は不思議とリズム感だけは良い。自分の中に無駄なリズムが流れていないからなのか、均一のリズムを永遠と刻める。他の何も手につかないがピアノを弾くことだけはできた。これは何か無意識を引き出すヒントになる気がする。今度そういう日が来たときの為に太鼓を買っておこうか。

なんというか、文章という媒体がよくないのかもしれない。文章は思考の伝達手段で、人に読ませることが前提で、絵や音楽と比べると相手に依存する割合が高いじゃないですか。だから、文章は言葉であり言葉は相手との境界線にあるから、読む側の経験や思想の範囲内で解釈されることが前提だと思うんですよね〜。その結果自分の理想とは程遠いものとなって受け取られることも少なくないっていうか。自分の手応えと読み手の評価に相関関係は無いって色々な方が言ってますけど、それは確かに〜と思うっていうか。じゃあもう何もしないで座ってろよって話なんですが(笑)

そうは言っても、僕の場合そもそもがさほど読まれていないのに、それでも続けられているのはやはり読んでくれる人がいるからだと思う。仕事は何してるの?と聞かれたらくだらないコールセンターですよとしか答えられないが、主に何をしている人なの?と聞かれたら本を作っていますと言える。これも読んでくれる人がいるからだ。

人間どれだけ勘違いできるかがカギだなと思う。同級生の中じゃ自分は相当勘違いしている方だと思うが、何かをつくったりしている人の中ではまだまだ勘違いが足りていない。客観性は人をつまらなくする、そして無意識からの声を遠ざける。今僕に必要なのは森田療法ではなく、中学生みたいな勘違いなのかもしれない。

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