文に書かれるとうまくいく
この、何かを書く前の真っ白いノートほど恐いものはない。
目の前に真っ白い紙を用意して、そこになんでもいいから好きなことを書いてみようとすると誰でも一瞬困ってしまうと思う。糸井重里はガロにペンギンごはんを描いていた頃のことを「自由が恐くて自由から逃げていた」と言っていた。なんでも自由に表現してみろと言われると恐いのである。
多分、それは頭で書くからだと思う。
書こうと思っているうちは書けない。自由が怖くて身動きが取れない。もちろん書き始めは頭で書くしかないんだけど、最後までそれだと上手くいかない。
昨日は山田悠介についての考察を書いたのだけれど、昼にコーヒーを一杯飲んでそのまま八時間ぶっ通しで書いた。
詰めが甘かった部分はあるが、まあ満足のいく出来になった。昨日は途中から僕の方が文章に書かれている感覚があった。僕が文を書いていたのではなく文が僕を書いていた。そういうときは上手くいくことが多い。いかに早くそういう状態に持っていけるかがものをつくる秘訣なのだろう。
だから書けない時は無理をしなくていいと思っている。書くことに限らず、他のあらゆることについても同じで、その気にならないときは無理しない。何週間も連続で牧場物語をやったり令和の虎だけ見たりしていると「ホントクソみたいな時間だな、なんだコレ」と思うけど、それも次に進むために必要な時間なのだ。
精神病治療の一つに森田療法というのがある。これは主に神経症患者を対象に行われる療法らしいが、まず患者をひたすら寝かせる。絶対臥褥期といって7泊8日のうち患者は一日中ベットに寝ていなければならない。その間スマホやテレビや読書など一切の暇つぶしは禁止。食事や排泄など生理的な活動以外はベッドを出ることすら許されない。そうして本来眠っていた活動欲求をあえて一度鬱滞させ、絶対臥褥期を終えた患者には徐々に好きなことができる時間を与えていく。この、安静→煩悶→退屈のプロセスによって、患者は患者自身のエネルギーで元の生活に戻っていくのだという。
森田療法ほど苦行的ではないが僕の日常も似たようなものだ。その日、そのとき、やりたいと思ったことをやる。それをひたすらやる。飽きるまでやる。そして飽きてはじめて次のことに取り掛かれる。安静→煩悶→退屈のプロセスは神経症患者でなくても有効にはたらく。最近は書けない時期が続いてもそれを恐れなくなった。
そもそも人間は脳の構造的にドーパミンにペンを持たせた方がいいらしい。ドーパミンを分泌する脳内神経の中でも最大のものであるA10という神経は負のフィードバックが効かない。詳しくは知らないが、通常どんな脳内分泌物も最終的に自分の分泌を止める為のカラクリが働いており、これを負のフィードバックと呼ぶらしい。A10にはこのフィードバックを行う受容体が無く、それによってドーパミンの分泌に歯止めが効かなくなるのだとか。A10が繋がっている先は脳の中でも人間的な精神活動を創出する前頭連合野という部分であり、この過剰分泌は我々に創造性をもたらしている。文が僕を書いているとき、多分この前頭連合野にドーパミンが過剰放出されているのだろう。初動のかけ方さえ心得ていれば、あとはドーパミンが僕を追い越すのを待てば良いというわけだ。
僕は日頃、自己とは経験と感覚の媒体・通り道に過ぎないと思っている。
普段自己だと思っている部分に自己はなく、痛みや悦びが滞在したり通り過ぎたりしていくだけで、それによって性格や気分が決定される。ダイソンの羽の無い扇風機があるが、僕のイメージする自己とは丁度あんなかたちをしている。あらゆる経験と感覚は無意味に自己の上を通り過ぎてゆくだけなのだから、それを捕まえて無理やりペンを持たせるようなことはできない。ペンを持ってくれる経験や感覚が現れるのを辛抱強く待つことしかできない。
プラトンは自著の中でソクラテスに何かを語らせるとき、毎回神がかりを言い訳にしている。無知であるソクラテスが自ら何かを語るには理由が必要だからだ。しかし、なにもこれは創作上の都合というだけでなく、実際にソクラテスは自分にはダイモン(精霊)の啓示がありそれに従って動いているだけだと言っていた(見た訳じゃないが(笑))。自分は何も知らない。知っているのは相手であり神である。自分は産婆術をしているだけだと。
僕はよく子供に触られる。電車や駅のベンチでひたすらジッとしていると、空気や時間と一体化して木みたいになることがある。脳は冷静に働いているけど、それ以外の全ての器官が空間に固定されて自分のものじゃないみたいな感覚になる。そういうとき子供に触られる。吊り革みたいに僕の服の裾を掴んできたり、ベンチをなぞりながらその延長上にいる僕の膝の上をなでていったり。子供はまだ世界に慣れていないから、木になった僕のことを人だか物だかわからず触ってしまうんだろう。そういうときはすごくいいものが書ける気がする。多分ソクラテスは常にそういう状態にいたんだろう。ソクラテスはきっと沢山の子供たちに触られたと思う。
それからプラトンは芸術はミメーシス(模倣)だといった。万物はイデアの模倣なのだから、そこから産まれてくる芸術も真理の模倣に過ぎないと。どんな芸術も模倣なのだ。自分では誰の真似もしていないと思っていても、そこには必ず誰かのこだまがあって、真のオリジナルなんてものは現世にはひとつもない。芸術に限らず、僕たちは誰かに植え付けられた思考や癖を自分のものだと思い込んで生きているところがある。そういう観点からも、やはり自己と呼べるようなものは何ひとつないとわかる。今も誰かの紡いできた時間が書いているだけだ。
最近になってこうしてノートを書き始めたのも、一度自分を空っぽにして眺めてみたかったからだ。「これは湖底(僕の作ってる本)に載せるから取っておこう」と思って溜めていたことを、空っぽになるのを恐れて溜めていたことを全部使い切ったら、そのとき僕は何を書けるのかが知りたい。ありものを使って作るとやっぱり頭で書いてしまってつまらないものになる。そうじゃなくて、そのとき、その瞬間通り過ぎた経験と感覚にペンをとってもらいたい。今はそういう気分にある。