無関心でも、沈黙がつづいても、いいじゃないか
キナリ杯入賞作『岸田奈美が私にもたらしたもの』を読み、半ば勢いで大前粟生さんの小説本『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を買った。
小説を読むことがごくごく稀な私でも、今日、間をあけることなく、一気に読み終えた。
この本との1度目の出会いは6月頃に友人がTwitterで「良かった」と紹介していて、それを私がいいねしたこと。
感想文にとても苦手意識があるので……この本を読んで考えたこと、日ごろ自分が大切にしていて改めて言語化できたことを書いておこうと思った。
無関心は「さみしさ」も「やさしさ」も与える
私は、目の前で困っている人や悩んでいる人がいたら話を聞いてあげたいと思う。
私にできることが小さくても一つだけでもあるのなら、喜んで相手が幸せになるお手伝いをしたいと思う。
でも、相手が私にそれを打ち明けたくなかったら?
突っ込んでほしくなかったら?
私が
「最近、元気ないね。何かあったの?」
と聞いたら、
「え、いや、まあ……色々あって」
みたいな絶妙な空気になるに違いない。
ただでさえ相手が悩んでいるというのに、特に打ち明けたくない相手に突っ込まれて嫌な気持ちを一つ増やしてしまうことになる。
だから私は、「相手が話したければ話せばいいし、話したくなければそれ以外の話を明るくできる関係」を作りたい、と思っている。
ずけずけ突っ込んでいくのではなく、ちょうど良い距離を取りながら、自分も相手も心地よい状態での「無関心」を守りながら。
嬉しいことに、相手が私に話したい、と思ってくれたときに、私があまりにそっけないと、話しづらくてさみしさを感じてしまうかもしれない。
お互いがマイペースを保ちながら、踏み込みたいときに安心して踏み込める、そんな関係でありたい。
無関心であることは相手に「さみしさ」も「やさしさ」も与えるから。
沈黙の心地よさ
ちょっと前にある人から言われて、とても嬉しかったことがある。
「えんがわさんって、一緒にいて沈黙の時間があっても全然気まずくならないですよね。無理やりしゃべらなきゃって焦る気持ちにならないというか。」
ん~~~~~~嬉しい……。
かねてより、「会話に沈黙が生まれるのなんて仕方ないじゃん。話したいと思った衝動に任せて話せばいいんだよ」と思っていた。
それが、まわりまわって相手にも伝わって、無言を苦じゃないと感じてくれたことがとても嬉しい。
知らないうちに一仕事した気持ちだ。
この本の中に、「安らぐ相手との沈黙」の描写があった。
ああ、これがいいなあと思った。
居心地が良い沈黙の中にいながら、お互いがここにいて良いのだという共有感。安心感。
それでいて、ふとした瞬間に話しかけて1つの話題を共有できることが小さな嬉しい出来事になる。
そんな人と同じ時間を過ごしたい、と思った。
ぬいぐるみをしゃべらせていた私
私も、家にいるぬいぐるみをしゃべらせていた。
ぬいぐるみに話しかけるのではなく、ぬいぐるみをしゃべらせる族。
よくしゃべっていたのは、
・シンガポールZooで出会ったカバ
・友達が韓国土産としてプレゼントしてくれたヒツジ
・サークルの引退祝いにもらったヒツジ
・サークルの引退祝いにもらったカピバラ
他にもたくさんしゃべるぬいぐるみはいた。
主にお母さんとぬいぐるみをしゃべらせて遊んでいた。これが私の女子大生時代。
単純に昔からぬいぐるみは大好きだった。
その当時はぬいぐるみをコミュニケーションの媒体として使っていたのだと思う。
ぬいぐるみに、自分がしゃべりたいことをしゃべってもらっていた。
でも、我が家にねこが来てからぬいぐるみをしゃべらせる族(私と母)は解散となってしまった。
最近、ぬいぐるみたちがちょっとだけ肩身狭そうに座っている気がする。
あんなにしゃべってもらっていたのに、最近かまっていなくてごめんね。
これからもよろしくね。
おわりに
小説を読んで、ここまで考えをめぐらせたのは初めてかもしれない。
もっとたくさん書きたかったけど、言語化が追い付かなくて、
でもとりあえずこれは形にして残しておきたいと思った。
最初から100点を目指さずに。ゆるやかに発信。
ああ……焼酎がおいしい。
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