食べるということ
私にとって料理や食事は大切なことだ。
食べることは好きだし、誰かのためにご飯を作ったり、どんな料理を作ろうかと考えながら買い物するのも好きだ。
でもひとつだけ苦手というか、避けてきたことがある。それは、誰かと一緒にご飯を食べること。
ひとりで食事をすることは「個食」と呼ばれたり、あまり良いイメージはないと思うのだけど、私にはどうしてもそれが落ち着くのだ。
誰かと食事をしていると、きっと楽しいには楽しいのだろうし、楽しめているところもあるのだろうけど、ずっと緊張している。ひとりになったら、あれなんかお腹空いたかも、となることもよくある。
外食はめったに行かないし(ビーガンなので外食できる飲食店はかなり限られるというのもある)家に人を呼ぶことも稀。家族と囲む食卓も、自分が歳を重ねるにつれて、少し緊張するものになってしまった。
小さい頃はそんなことなかったんだけどなあと思い返してみると、おそらく4年前くらいが事の始まり。専門学校時代だった。
5年間の和裁専門学校はかなりハードで、朝6時から夜10時までぶっ通しで縫い物を続ける日もよくあったし、土曜日曜も学校へ行って、休み時間も休んでいなかった。そんな日が長く続けられるわけもなく、私は心のバランスを崩し心療内科を受診、診断は適応障害。
どうにもならない自分の状態に名前がついたことで安心した部分もあったし、とうとうこんなところまで来てしまったのかという諦めのような気持ちもあった。処方された精神安定剤は1回だけ飲んだらすごく効いて、効きすぎて怖かったからその後は飲んでいない。
鈍行の電車でも酔ってしまうくらい体調も悪く、やっとの思いでたどり着いた実家で8日間寝込んだ。何も食べれず水も飲めず、布団とトイレを這って往復することしかできない。何も食べていない体から出てくるものがあるのが不思議だった。
布団に寝て天井の模様をぼんやり数えながら、もしかしたら死に向かっているのかもしれないな、なんて考えたりもした。
8日目の朝は晴れていて、母が開けてくれた窓から冷たすぎるくらいの風がゆっくり入ってきた。体を起こすと座っていられる。未だかつてないほどゆっくりと足を立て、そっと力を入れて立ち上がる。歩ける。
それから少しずつ飲めるようになり、食べれるようになった。
体は戻っても、心に負った傷が癒えるには長い時間がかかる。多分まだ治っていないし、治るのかも分からない。どうやって治すのかも知らないから、時が流れるのを待っている。
一見普通の人に見えるかもしれないが、見えないところでは傷だらけのズタボロなのかもしれない。
きっと何事もないように過ごせていると思うのだが、隠しきれないところもあって、それが誰かと一緒に食事するのが苦手ということに現れているのだと思う。
食べれるということは、調理できる食材があって、調理をする環境があって、道具があって、時間があって、出来上がった料理を食べられる体があるということなのだ。なんとありがたい。
そんな奇跡のようなありがたさを知っているのに、ひとりで食べたいとなるのは、食べているところを見られたくないというのが大きい。
それがなぜなのかはまだ分からないのだけど。
誰かと食事をすることに今より抵抗が大きかった頃は、どうしても途中で箸が止まってしまい、ちょっとだけ手を付けてほとんど残してしまっていた。出された物を残したら捨てられるのは分かっているからそんなことはしたくない。でもこれ以上食べるのは無理。こんな葛藤をしながら食べるのは嫌だし、だからひとりで食べるということを選んでいたのだと思う。
今ではいろんなことが少しずつ緩んで、許せるようになって、そうしたら食事に対する抵抗もほんの少しずつ減ってきた。ゆっくりでいいと思う。
冬からアトピーが再発して、食事を1から見直していたら色々思い出して書きたくなって長々と書きました。
世の中には不食の人もいると聞くけれど、私はやっぱり食べるとこが好きだから食べたい。
いつか、心から楽しんで誰かと食事できる日を楽しみに。
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