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李徴は虎でもあるし、ウサギでもある気がする

「その声は、我が友、李徴子ではないか?」
この一節でよく知られる、『山月記』(中嶋敦)。
高校の現代文の教科書に掲載されていることもあり、
多くの人が一度は読んだことがあるはず。

高校生の頃はこれ、なんて思いながら読んだんだろう。
「李徴が虎になったな」くらいしか覚えていないあたり、おおかた大した印象は受けなかったんだろう。

アラサーになって、改めて、なんなら音読までして読んでみると
ぐさぐさと刺さるものがあった。
特に、物語後半、
「何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依れば、思い当たることが全然ないでもない。」という李朝の独白から始まる部分。

李徴は、自分が虎になった理由を自身の「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」によるものかもしれないと話します。

「己の珠にあらざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、
又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍するもできなかった」

自分の才能のなさを知られることが怖くて、人に教えを請うたり、誰かと一緒に切磋琢磨することができなかった。
そのくせ、なまじ自分の才能を信じていたがために、一心不乱に努力するということもできなかった。

・・・あるよなあ〜〜〜。
この「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」に心当たりがありすぎて。
自分はこれができるんじゃないか?って思っていること、オープンにすると全然力足らずでバカにされそうで怖いし、傷つきたくないし。でもなまじ「自分はできる。やろうと思えばいつだってできる」って思っている部分があるから、這いつくばってでも努力しようという気持ちにもならないし。
そんなことしている間に、愚直に努力を重ねた人は成果を出していく。それを見て羨みながら、「でも自分だって」と思うだけの日々。

李徴は続けます。
この「尊大な羞恥心」=猛獣(虎)を心の中に飼い太らせた結果、ついにその猛獣に自身が食い破られ、虎となってしまったのだ。と。

「尊大な羞恥心」は李徴の心を巣食い、衝動的に突き動かし、自身だけではなく、家族や友人までも傷つけた。この乱暴さは確かに「虎」と呼ぶにふさわしい。
でも、スケール感だけでいえば、もっともっと小さくて臆病で、とるに足らないような、可愛らしい「ウサギ」のような気持ちのような気もする。

(『山月記』は中国の怪異小説『人虎伝』が元になっているという事実はさておくとして)
ウサギのようなちんまりした可愛いスケール感で、でも暴れるとトラのように凶暴で手がつけられないもの。
そういう気持ちなのかもしれないですね。

ちなみに、この李徴の性格を考えると、
李徴の「自嘲的な調子」もなんだか納得がいきます。
誰かにつっこまれたり、馬鹿にされたりする前に
自分で自分に保険をかけておきたい、そんな気持ちの表れなんじゃないかと。

そして悔しいことに、
李徴は「才なき」がバレるのを危惧して、ちょっとこじらせて、
バレるくらいなら出さんかったらええんじゃいとひとり独学の道を突き進んだわけですが
普通に「才」はあったのです。
ひとまず世に出してしまえばよかったのです。
李徴が恐れていたより、実際は賞賛の声の方が多かったのではないでしょうか。
その上で、客観的な指摘を受け入れつつ、アップデートしていけば簡単に名を成すことができたんじゃないかと思います。
「才なし」と思い込んでしまう、根っこの部分の自尊心の低ささえなければ。きっと。

とはいえ、私には李徴を断罪する資格など全くなく、
むしろものすごく共感するなぁという感想しかありません。
自分にできるのは、虎のようなウサギのような心に食い破られないよう、
ちゃんと自分を出していくことだけ。
ちゃんと、這いつくばっていくことだけ。

自分のための備忘録的読書感想文でした。


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