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人と自然の非言語コミュニケーション

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朝起きた。


夜寝る前よりマシだったけれど、頭が働かない。


どうしようもない閉塞感と孤独感があった。


ふと思った。

いままで、どうやって生きてきたんだっけ。

おかしいな。

どうやって立ってたんだっけ。


急にわからなくなった。




とりあえず、洗濯物を干して、公園へ行くことにした。







公園に到着した。


池を眺めて、木々の下をくぐって歩いた。






自然の中、深呼吸をする。

目を瞑る。


鳥の声、水の音、木々のざわめき🌿


優しい。


よかった。 よかった。


よみがえっていく。



どうして、落ち着くんだろうな。




あ。


わたしの意識は、自然のなかにいるときは広がっていることに気づく。


四角い部屋にいたときよりも広がっている感覚がある。


自然のなか、わたしの意識は自然のエネルギーと溶け合って、混ざり合っているようだ。


森のなか、木々も花も鳥も生きている🌿🌼🐦

たくさんの生き物がいる。

それが森で自然なのだ。



意識が広がっているのは、自然の生き物たちとコミュニケーションを取っているからだと思った。

それは、非言語の対話。コミュニケーション。



人は、自然と非言語コミュニケーションをとる存在で、これが本来あるべき姿なのかもしれないと思った。




縄文時代まで遡ると、人は常に自然とコミュニケーションをとっていただろう。



縄文時代から体のつくり自体はほとんど変化していないかもしれないし、現代社会のあり方に適応できていないのかもしれない。



自然と切り離されてしまっている生活。

不自然な 生活。



母なる大地に抱かれるとき、

わたしはわたしに還ることができる。






朝、白い四角い部屋で目覚めて、閉塞感と孤独感を感じた。


コミュニケーションがとれないからだ。


自分という意識が、自分の体の枠を出ない。

それは、個であり、孤独だった。



人がコミュニケーションをとるのは、きっと人や動物だけじゃない。

きっと、自分で認識していなくても植物たちともコミュニケーションをとっていたんだ。


自然のなか、コミュニケーションをとることで愛や叡智も受け取っているのかもしれない。

そう思えてならない。



自然欠乏症候群ってつまりそういうことなんじゃないかな。


人は、常に自然と非言語コミュニケーションをとるべき存在ってこと、なのかも。




子どもたちのみならず、大人もみんな、母なる大地の子。

現代人は、母と切り離されてしまい、彷徨える仔羊にも思える。




朝起きたあの閉塞感。

なんだ、わたしはむしろ正常だったな。

そう思った。




わたしは、自然のなかで暮らすべく、道を歩んでいくだろう。


一足飛びにはいかないな。


一歩一歩。





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