今年はソクラテス! (2)
2
ちなみに、反対語を考えるとその事柄の本質に近づける
……ということがありますが
「エラソー光線とは逆のもの」
とは何か。
単に、誰かの見かけの感じが良いとか悪いとかいう印象
の話なら
「へりくだった態度」
とか
「謙虚な姿勢」
とかが反対語でしょう。
けれど、すべての人間ではないにしても、相当な割合の
人々がどうしてもエラソーなものに憧れたり踊らされた
り
また反感を持っていても、ついついその光線の前で縮こ
まったりしてしまう。それはなぜなのか、といったこと
まで含めて
「エラソー現象の根源にまで迫りたい」
と思うときには
エラソーの反対語は、エラソーを押さえ込んだりついつ
いエラソーになることを反省したりする態度ではなく
「そもそもエラソーとは無縁のもの」
になるのではないでしょうか。
つまり人間の社会でエラソーが生まれてきたのには必然
があるだろうが、エラソーが生まれる以前の状態という
ものもあったはずだ……ということです。
だから並列的(同時)にエラソーとエラソーに無縁なも
のとがあるのではなく
もともとエラソーに無縁だったものが、どこかでエラソ
ーになっていく……という歴史の必然と、それをまた私
的になぞるような、個人史の必然みたいなものがあるの
ではないか?
ソクラテスとプラトンという師弟の一対についてボンヤ
リ考えているときに、わたしはそうことを思いつきまし
た。
「エラソー」
と
「エラソー以前(無縁)」
というこの二つの関係について、ソクラテスとプラトン
という先生と弟子のひと組は、大事なことを暗示してい
るように思われます。
ここには教える者と教わる者の原型とも言うべき鮮やか
な対照もありますけれど、わたしの見方では
「ソクラテスは実はエラソーなものと無縁」
で
「プラトンは結局エラソーなものに囚われていった」
ということになります。
本を書かなかったソクラテスとすぐに文章を書き始めた
プラトン。この対照に何かしらピンとくるものをお持ち
の方々は、大体のところでわたしと同じ関心を共有して
いらっしゃる、と思います。
(じゃあ、そうやって文章を書いているお前もエラソー
人間って結論になるんじゃないのか?)
という疑問にどう答えるのか、果たしてここから書き連
ねて行ってうまく答えられるか……これからやってみた
いと思います。