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本当のこと

「学問」というのは、問うことに関する学び、と書くわけだ。
たとえば、社会学や自然科学は、一体何を問うているのか? と考えたい。

哲学という「学問」はおもに、人自身について問う。「人」とはどういう存在か? と。あるいは人が棲むこの「世界」とはどういう存在か? と。「世界」を問うのは、人が生きる前提となる条件であるから。

哲学がギリシャではじめにそれと顕在化したとき、世界の成り立ちや物質の根本成分とは何かが問われた。それは水と空気と土と火であるとか、目に見えないほど小さなアトムというもので構成されているとか。それらはやがて「自然科学」という支店を出して、そこへ役割を別けていった。
あるとき、たとえばソクラテスが、世界から人の方へその問いを寄せた。人はどう生きるべきか? と。

哲学とは、何についても「本当のところはどういうこと?」と、問う「態度」のことである(貫成人)。だからこそ、いろいろな分野の母体となりえたし、いろいろな分野の根底のところに今でもずっと根を下ろし続けている。

哲学は、この「本当のこと」という問いを、限界を設けることなく問いつづける。
ほかの分野、たとえば自然科学であれば実証されないものについては問わないとか、社会学であれば「このこと」を問うがこの先は扱わない、といった境界が存在する。「分野」とはまさに問う対象領域(フィールド)を分けることだ。そうやって問題を詳細化/精緻化していく。
けれど哲学は「本当のこと」という思考の中で、ここから先は扱わない、という境界を設けない。もしもここから先は「扱いにくい/問いにくい」という事態が起きたときには、なぜ「扱いにくい」のか、という問いを発動させる。
それ哲学の「本当のこととは?」というアプローチである。

最近の自分の興味は、それでは人の「本当のこと」を支えているものとは何か? という視点である。人は、あることが本当なのか本当でないのか、をどうやって判断しているか、ということ、それが気になって考え続けている。

今のところの結論は、そう「信じる」というだけなのではないか、と考えている。「信憑」というものの在り様を知りたい。
たとえば、科学あるいはその元となる数学や論理学的な合理的な思考分野といえども、最後は「信じる」ということに行き着かざるを得ない。ゲーデルの不完全性定理が導く結論とは、そういうことではないのかと思う。
ある閉じた系において、系の内側だけでその系の正しさを導くことはできない。その系が正しいことをいえるためには、まずその系の外に足場を置かなければならない。それが不完全定理の自分の理解だ。
「本当のこと」という全体としての問いを最大限の大きさで問おうとすることは、つまりその外側はないという意味であるが、だとすればその「内部」で正しさを担保できない、ということになる。
あとは「信じる」というかたちで身を投げ出すしかない。
(ここら辺は、哲学者/社会学者ヒュームが論じているようなのだが、まだ自分には読み解けていない。)

旬な話題から拾う。
新型コロナウイルスでのワクチンやマスクの有効性などについて、本来は科学的に結論が出る/出すべき話題にもかかわらず、その結論が「信じられない」ために一般の人(一部専門家も)が、フラットに議論し混沌とした状況になっている。
また統一教会関連の事件は「信じる」ことの危うさをそのまま表している。教会のトップや一部の信者の振る舞いは狂信的なものと自分の目には映るが、ストレートに議論をしても、両陣営の大元の信じているものがちがうので決着がつけられない。
AIのもたらす自動生成絵画やディープフェイクも、人が「本当と信じる」ことに関して強烈な揺さぶりをかけてきている。

自分としてはこの辺のことについて、どういうスタンスをとればいいのかまだ整理が付いていない。

せいぜいいえることは、すべては疑いうる、ということを決して忘れない、ということくらいだろうか。
自分が正しいと感じれば感じるほどそれは怪しい。そうとしか考えられない、というのは、そうとしか信じられない、ということにすぎない。どこまでも騙されている可能性を排除することはできない。どんなに強固であるといっても「確信」は「信じる」ことでしかない。構造主義的にいえば、そういう構造のなかにわれわれは生きていることだろう。

また、そうでありながら、しかも疑心暗鬼にもならないこと。
疑心暗鬼もしょせん「信じる」の手先にすぎない。

すべての「完全」を疑うこと。

220901

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