「目的」というドクサ2
「目的への抵抗」國分功一郎
前回「目的」について書いた直後に、「目的への抵抗」を入手した。 自分はおもしろかった。視点はまったくちがうが、自分がいいたかったことと結論的には同じだととも感じた。
本書の結論:
われわれの生活から目的が消え去ることはありえないが、あらゆるものが目的合理性に還元されてしまう事態に警戒すべきである。
自分が前の文章で書こうとしたことは、目的は意味はあるけど、あまり縛られない方がいいのじゃないか、という気づきだった。結論として目指していることは同じだ。
「なぜなら」以下はちがう。自分は目的の機能と起源からアプローチして、目的って、人の思い込み(ドクサ)なんだから「絶対ではないよ」と書いた。
本書のストーリーフロー
コロナ禍の「不要不急の外出自粛」は、「必要」ではあった。
「必要」は何らかの「目的」に結びついている。「目的」とは "それのため" といいうる何か。
「贅沢」の概念:必要でないもの。
浪費と消費はちがう(ボードリヤール)。
浪費は物の過剰であり、豊かさの元でもある。物の過剰なので、どこかで止まる。
消費は物ではなく「記号消費」なので際限がなく、手元に何も残らない。
記号消費とは、たとえば「ある物を手に入れたこと」「おいしいレストランに行ったこと」そういう観念を手に入れること。(「インスタ映え」のために、どこかに出かけて、おいしそうな写真を撮ってアップすること、が思い浮かぶ)
かつて「物質的豊かさの否定」「清貧の肯定」つまり浪費は悪と謳われたが、浪費は贅沢であり豊かさの元であり悪くない。悪いのは消費。
贅沢の本質:目的からの逸脱、目的からはみ出ること。豊であること。過剰性。
豊かさを感じることこそ「人間らしい生の核心」。それは必要/目的に還元できない。
現代社会は、目的からはみ出すものを許さない傾向がある。コロナの「不要不急」はそれを象徴的に想起させる。
これは、人々を記号消費に留めようとする論理と、贅沢を戒める論理という非人称的論理が手を結んだ結果。
非人称的とは、具体的な誰か、はいない、ということ。
目的の概念(アーレント):「目的を追求するために効果的であれば、どんな手段も許される」
さらに、手段を正当化するために目的を設定しているのではないか、という。そして目的が一度設定されてしまったら、どんな手段も正当化されうる。
ついに「目的の定義:手段を正当化するもの」となる。
贅沢は豊かさをもたらすものだが、その例、たとえば「美味しいものを食べる」「スポーツやゲームを楽しむ」「芸術をしたり、みたり」すること、それらは何かのためにするのではない。「それのためにそれをする」こと。あるいは、「人生のために人生を生きる」など。
「あらゆることを、何かのために行い、何かのためで行為を認めない」というのは、ナチス/ヒムラー/SS隊員の態度であった。
そして結論へ。
いや、なかなかおもしろい、ですね。
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