見出し画像

ああ、春が来た。

母が、銀杏を植木鉢に植えた。

いくつかの季節を超えて、枝が伸びてきて、あたりまえではあるけれど、イチョウの形をした葉っぱが生えてきた。

世界はシンプルにできている。ああすれば、こうなる。わかりきったことだ。そのはずなのに、生きることは、なかなかそこそこ難しい。

コールセンターの仕事に就いて2ヶ月だ。研修を終えたのが1か月前。私は今、最初からわかりきっていた壁の前にいる。

そもそも、電話応対業はここ数年、避けていたのだ。こうなることがわかっていたから。だけど私が所属している派遣会社が、電話の仕事に強いところで、さらに言うたら勤務地の立地と諸条件が完璧だった。実家と自宅の真ん中に職場がある。前よりグンと、実家に帰りやすくなる。

数年を空けたことで、ひょっとしたらもう、できるようになっているかもしれないという期待もうっすらとあった。私はもう、平気かもしれない。平気になっているのかもしれない。……ちがった。全然、平気じゃなかったよ。

私は「怒り」と「イラ立ち」の知覚過敏である。

相手が少しでもそれらを見せると、心がちぢみあがる。隠してるつもりでも、簡単に感じ取る。かなりの感度でそれらの電波をキャッチして、その瞬間、すべての毛穴が収縮する。毛髪が逆立つ心地さえする。

「なんだこのやろ!」とか「言い負かしてやる!」とかは1ミリも思わない。ただただ思考が止まる。身体がかたまる。そして1秒毎にものすごく消耗する。どんどん生気を吸い取られてゆく。ひとしきりそれを浴び終わると、それはそれは、とてつもなく、悲しくなる。

ほんとうは放心状態である。なにも手につかない気持ちである。けれどコールセンターでは、何らかの方法で気持ちを切り替えて、次の電話を取らなきゃいけない。

相手の「怒り」や「イラ立ち」だけでなく、自分の中の「怒り」や「イラ立ち」にも、ものすごく敏感になる。ほんの少しのことで、イラッ、としている自分がいる。おおらかに寛容でありたいと、思っているのにそれができない。声や言葉に漏れてしまわないかとヒヤヒヤする。

コールセンターは、「怒り」と「イラ立ち」の最前線である。お客様のそれらを、まず直接浴びる部署だ。波打ち際に立ち、ざぶんと波を浴びる。びっしょびしょになりながら、手元の赤い札を上げる。赤い札をあげれば、先輩や上司が背後に立って、通話を一緒に聞いてくれることになっている。相手の怒号に向かって返すべき返答を、背後からささやきかけてくれる。それをただ繰り返すことでなんとか終話したり、上司に変わったりして、ことをしのぐ。

最近、同期や先輩と話す機会があって、まっしぐらに聞いた。怒りやイラ立ちを浴びた後、平常心を保つ方法を。すると、だ。

「とくに何も感じない」
「そもそも私は、相手が怒ってるかどうかがよくわからない」
「相手の怒りは自分じゃなくてクライアントへのものなんだから、傷つくだけ損」

もっともだ、と思う。自分が叱られているわけではない、というその理屈もよくわかる。わかりきっているのに、身体と心がそこへ向かわない。怖い。悲しい。泣きたい気持ちで容れ物がいっぱいになる。ワーキングメモリがそこに費やされるから、信じられないミスをしたりする。

この仕事に必要なのは、びしょ濡れになってもへっちゃらな心だ。すでに水着を着てゴーグルとシュノーケルをつけていて、波打ち際にいることを楽しめる心だ。私は、ちょっと足元が濡れただけでギャン泣きする子どもだ。でも大人なので、泣くのは全力で我慢している。

ちょっと困難があったほうがむしろ燃えるぜ、的な人もいいだろうなと思う。難しいお客さんに対処してるときほど、いきいきして見える先輩もいる。いいなあ、楽しそうだ。そういう大人に育ちたかったな。多少の困難も笑い飛ばせる大人に育ちたかった。

……と、こういう途方に暮れた気持ちになると、周りを見渡すようにしている。そして思う。

ああ、春が来たな!

春は私の絶不調シーズンである。花々や新緑が盛大に生命力を放出しだすと、私の生命力はガタ落ちする。常に急かされている、急き立てられているみたいな気持ちになって、そこにもワーキングメモリが費やされ、信じられないミスをしたりする。

冬眠じゃなくて、春眠がしたいのだ。(2024/04/16)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?