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人生半世紀、「恋愛アレルギー」を考える

例えば、空を飛べる少年の物語。ロンドンに住まう3人の姉弟を冒険の旅へ誘って、みんな一斉に夜空へ飛び立つ。

あるいは、果物から生まれた正義のヒーローの物語。おばあさんが川で拾った大きな桃を、真っぷたつに割ったら赤子が現れる。

子どもだった頃は、あらゆる物語を楽しむことができていたはずだ。それがたとえ「自分には起こらないこと」であっても。

そのはずなのに。

物語を楽しむ能力って、年齢とともに薄れてくものなんだろうか。51歳の私は今、ある種の物語に、どうも乗れなくなっている。

若い頃には、恋愛ものって、ファンタジーとして楽しめてたはずだ。「自分の身には起きていないこと」であっても「これから起きるかもしれないこと」として、心を重ねていられたのだと思う。

50歳を過ぎた。恋愛模様も、これまで皆無だったわけではない。けれど今、持ち物をごく素直に断捨離していくと、私にとって恋愛は「なくていいもの」になっちゃったことを否めない。その方が平穏。その方が幸福。

そもそも私は男女を問わず、「人から慕われること」や「私を慕ってる(らしい)人」が苦手だ。

人から顔色をうかがわれるのが嫌いだ。何かをみんなで相談してるときに、私が右へ出るか左へ出るか、出方を待って合わせようとされるのが嫌いだ。

私が動くと、にまにまと、目で追われるのが嫌いだ。ちょっと離れたところから、話しかけてほしそうに、ずっとこっちを見られてるのが嫌いだ。話したいなら自分で話しかければいいのに。

と言いつつ、延々と話しかけられ続けるのも嫌いだ。俺はお前より詳しいからと、上から物事を説いて聞かせられるのが嫌いだ。「俺は他の奴とは違うんだ」とか「俺はお前のことをわかってる」とかを、言外に匂わせようとされるのも嫌いだ。

……いやーー、ひどい。この性分で、ときめく何かが始まるわけがない。

だからあらゆる創作物で、誰かが誰かに「気がある」「でも言えない」「気づいてほしいの」みたいな描写があると、もうダメだ。チャンネルを替えちゃいたいレベルである。気づけば、映画もドラマも本も歌も、食指が動くものがグッと減った。あらゆる「キュン」に共感ができない。

たとえば、NHKBSで最近始まった『団地のふたり』。50代の幼なじみ2人組の、飾らぬ日常を描いた小説のドラマ化。主演は小林聡美と小泉今日子。

原作小説には、彼女たちを恋愛が支配する場面はない。一方ドラマでは、あるシーンで小泉今日子が、小林聡美に執拗に迫るのだ。「昔、うちの兄貴のことが、好きだったでしょう??」。

違和感が芽を出す。一緒に育った50代幼なじみが、今さらそんなとこ突っつくかなあ。そんなものなど、とうに踏み越えた関係の尊さこそが、本作の主題であるはずなのに。

今日は再放送されてた『オードリー』を観た。20年以上前の、伝説の朝ドラ。40代も終盤を迎え、結婚も出産もせず映画監督になった主人公が、七転八倒しながら、宮本武蔵の生涯をフィルムに収める。

その、途端だ。最終回で主人公は、長嶋一茂と堺雅人から、一斉にプロポーズされるんである。「映画の監督じゃなく、俺だけの監督になってくれ」とか。「共に映画を撮りながら、人生も共にしたい」とか。

これって、あれじゃないか。『逃げ恥』に出てきたやつ。「好き」の搾取。「映画が好きなら、映画を愛する俺のことも愛せ」「俺のことだけ愛して尽くせ」。いったい、ひとの人生を何だと思ってるんだろう!

ちなみに主人公は、一茂のプロポーズを断る。堺雅人のプロポーズも、そのようになるだろう。当時の朝ドラとしては、画期的な展開だったと言える。

……と、ここまで来て思うに、私はつまり「恋愛アレルギー」なのだ。あまりにも知覚過敏、あまりにも過剰反応。だって恋愛結婚だったはずの両親は、物心ついた頃から幸せそうじゃなかった。父の悪口を、母からもりもりと聞かされながら育った。若い頃は人生修行として我慢できたけど、もう無理。ごめんなさい無理。限界。

想像力の欠如、なんだろうなあ。もっと大らかに、何でもウェルカムな大人になりたかったな。でも大人だからこそ、自分に正直でありたいとも思う。歳を取れば取るほど、なおさら。

「勉強のため」とかで、嫌いなものを無理して喰らうんではなく。それが嫌いな自分を、自分で責めるんでもなく。心が動く方へ。いい匂いがする方へ。好きな匂いを、深く大きく、胸いっぱいに吸い込んでいたいと思うのだ。(2024/09/22)

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