紀伊國屋新宿本店
新宿伊勢丹の7階にあるカジュアルレストランに着いた時、ちょうど18時を過ぎたところだった。時間的に混雑を懸念したが、店内は閉店間際かのような閑散具合だった。1人では逆に心細くなるほど広い席に案内され、思わず「こんな広い席で大丈夫ですか?」と声をかけると、「え・・・?ええ、別に」とそんな事聞く人いるんだというような顔で返事をされ、自分の感覚が伊勢丹と全くマッチしていない事に落ち込んだ。
席に着くなり、私は紙とペンを机に出して手紙を書き始めた。この日行われるサイン会でどうしても渡したかったのだ。いい感じのレターセットが家になく、当日買おうと決め文房具屋を覗いてみるもデザインは可愛いが1枚につき5行程度しか書けないようなものばかりで購入に踏み切れなかった。想いが強すぎるオタクは普段どこでレターセットを調達しているのだろうか?結局封筒だけ買って、手紙は最悪これにと持ってきた方眼用紙を使うことにした。口臭に影響の無さそうなケールのサラダとパンを注文し早速書き初めてみると、あまりにも字が汚い。冒頭の「ファンレターというものを初めて書くので緊張しています。」という文字を書いてはボツにするというのを5回程繰り返してみたが改善は見られなかった。もういっその事iPhoneで書いた下書きを印刷して持っていこうかと考えたが、Yahoo!知恵袋の同様の悩みに対する「推しからの返事、印刷と直筆どっちが嬉しいですか?」という回答に胸を打たれ、汚い字で書くことにした。指定された集合時間まであと1時間しかなかった。書けば書くほど字がばらばらと散らかっていくのが気になったがとにかく時間がない。焦りと緊張が字面に出すぎて本文の内容と乖離していく。どんなに身だしなみを整えても字がこれじゃあ意味がない。今日の為にかけてきた美容代は全部ユーキャンに使うべきだったんだと確信しながらなんとか手紙を完成させた。学校に提出するレポートみたいな見てくれになった。
サイン会は紀伊國屋書店新宿本店の9階で行われていた。芥川賞候補に選出された「転の声」の出版記念イベントだった。いつか必ずと待ち望んでいたサイン会。でも実際にその切符を手にしてみると逃げ出したいような気持ちにもなるのだった。ファンというパッケージングされた好意だという自覚はあるものの対面するとなると普通に恥ずかしい。ライブであれば、心が通じ合ったような自己満足な錯覚や目があったなどという虚言もある程度見逃されるが、対面となるとそうはいかない。圧倒的に他人、初めましての知らない人になるのだ。それが大好きな尾崎さんだとしても人見知りの私には辛い。いや、大好きな尾崎さんが他人になってしまうから辛いのだ。尾崎さんの口から発される定価の「ありがとうございます」にショックを受けやしないだろうか。すかさず「行かない」という選択肢が生まれるんだよねとエセケンの声が脳に響く。抽選は当てるけどサイン会には行かない。ただ行かないんじゃない、当てた上で行かないということに価値があるんだよねと捲し立てて来る。
私は絵萌井あおに賭けることにしてなんとか集合場所に辿り着くと、すでにたくさんの人が列に並んでいた。一様に期待が不安に押しつぶされてしまったような神妙な顔をしていて、雰囲気に呑まれて泣きそうになる。デコルテに#サイン会に行ってナニが悪い! とタトゥーを入れてくるべきだった。最後尾のプラカードを持った係の方はひとり呑気な表情で立っていて、手を繋いでいただけませんか?と縋りたいような気分だった。ここで恋が芽生えようと、尾崎さんの前で取り乱さず済むのならそれでもいいとひとり勝手に腹を括った。現場は相変わらず、それぞれの大きすぎる感情が渦を巻いてそれがそのまま積乱雲へと発達して大嵐になりそうな予感で充満していた。だがそれは、ここに並ぶひとりひとりにとって尾崎世界観が特別な存在だという証拠でもあり、私の分別のついた好意など取るに足らないもののように思えてくるのだった。
30分ほどかけて列がサイン会会場まで進むと、尾崎さんの声がはっきりと聞こえてくる。聞き慣れた声に感動する。30分という緊張を醸成するのに十分すぎる時間のおかげで、部屋に入る頃には若干お腹も壊しかけ、固くなりすぎて全身がピリピリと痺れていた。こうなるともう早く終わって欲しい気持ちの方が強い。部屋の入り口に設置されたボックスの中には可愛らしい封筒がたくさん並べられており、優しそうな字や可愛らしい字で書かれた色とりどりの「尾崎さんへ」からはどれもハートのエフェクトが飛んでいた。私のレポートみたいな手紙、というかもはや手記は完全に場違いである。だが、一旦提出しようとした手の動きを取り下げるのは明らかに不審な行為であり、頭部がパトランプの警備員が乗り込んで来て確保されるような痴態を晒すものなら死んだ方がましであると思い詰め、そのまま何事もなかったかのようにボックスへ提出した。ギリギリの精神状態の私をよそに人力のベルトコンベアーは順調に一定の速度で動き続ける。会場スタッフの素敵な気遣いにより設置された全身鏡に向かって会って間もないうちから下の名前で呼ばれそうな女の顔をしてみる。絶望的。私の番が来る。
「大好きです」とにかくこれだけは言おうと決めていて、とにかく言った。言うだけ言った。こんな緊張にまみれた「大好きです」、言っても全然届いてる気がしなかったけどとにかく言った。ただの言葉の羅列だなと思った。ほんとしょうもないただの音じゃんって思った。おはようございますとおんなじ「大好きです」だったなと言いながら思ったし、尾崎さんの後ろにはいろんな人からの「大好きです」がわんさか積まれていて、私がこれまで何度も何度も口にしてきた使い古しの「大好きです」も言ったそばからその山に埋もれていった。そんな事が頭を駆け巡っているうちにサインを書き終わった尾崎さんがお顔あげてくださり、その上目遣いで覗き込むような表情が美しすぎて愛しすぎて、このままどこか連れ去って閉じ込めてしまいたい、もとい汚い大人達に囚われた世界から救い出してやらなければというような衝動に掻き立てられた。尾崎さんはこんなに字が汚く、更には危険な妄想に取り憑かれた私のような人間にも嫌な顔ひとつせず温かく声をかけてくださり、こんなに嬉しい出来事は初めてで嬉しいという感情に気がつくのに時間がかかるほどだった。夢でも話しかけてくれた事ないのに!と大興奮の数秒間だった。
外に出ると汗ばんだ体に風が心地良い。今更になって膝が震えていることに気がつく。ビルの灯り、信号機、タクシーのバックライト、あらゆる街の光がイルミネーションに見えた。味わった事のない開放感でどこまでも飛べそうだった。冷静になってみれば、あんなしわくちゃの「大好きです」もらっても困るだろうなと後悔が押し寄せたが、それでも本人に直接渡せたんだという興奮と喜びは新宿の夜を甘く染めていた。しかしながら、そんなことよりもあのレポートみたいな手紙みたいな手記の方がよっぽどもらって困るはずである。もう今さらどうすることもできない。それだけが心残りだった。